安らぎの檻 朽ち逝くとき−第10話後七夕小噺−


 カタン、コトン、と一定の間隔で規則正しく響いてくる音に、冬耶はふっと意識を覚醒させた。
 さわさわしとしとと柔らかく耳をくすぐる音に、外では小雨が降っているのだと知れた。
 もうすぐ生まれてくる我が子へ付けてやる名を、
 アレでもないコレでもないと延々悩んでいるうちに寝入ってしまっていたらしい。
 ゆるく頭を振り、眠気を飛ばす。
 一つ思い切り伸びをしてから立ち上がった。
 相変わらず、カタン、コトン、と規則正しく響いてくる音の方を見て、
 ふと小さく微笑んだ冬耶は、その音のする方へと歩み出した。

 「雫」

 戸を開いて妻の名を呼ぶ。
 呼べば、規則正しく繰り返されていた音が止み、真新しい織機の影から雫がひょっこりと顔を覗かせた。
 冬耶の顔を目に留めた途端、雫の表情が嬉しそうに華やぐ。
 そんな雫を見た冬耶の表情もつられるように穏やかなものになっている。

 「こら、外は雨だってのに身体冷やしたらどうする」

 雫の傍に寄り、しかめつらしく説教を口にする冬耶は、
 しかし、口調とは裏腹に怒っているというよりは困っているような顔をしていた。
 直接雨に打たれているわけではないものの、外は雨だというのに雫が身重の身体で
 家の隅にある織機に長時間向かいっぱなしというのは心配だった。
 いくら夏の雨であっても、過保護だと言われても心配なものは心配だ。
 そんな冬耶の心配症もわかっているので、雫も困ったように笑って応えるしかない。

 「大丈夫ですよ、そんなに長い時間座ってるつもりはないですから。
 毎日少しずつなら、冬耶も許してくれるでしょう?」
 「……根詰めすぎないようにな」

 渋々頷く冬耶に、嬉しげに笑って返した雫は再び織機に向き直った。
 ぎしっ、カタン、コトン、と雫が糸を紡いでいく度に、今ではすっかり耳慣れた音が辺りに響く。

 「もうすっかり慣れたみたいだな」
 「機織りですか?…まぁ、始めは凄く面倒でわけわからなかったですけど…
 折角冬耶の父様と母様が設えて下さって、村の人が使い方教えてくれましたから少しは…」

 それに、と、雫は随分大きくなった自らの下腹部を撫でながら続ける。

 「それに、自分で織った布で生まれてくる子供に何か作ってあげられたら、素敵かなって…。
 多分、冬耶との子供を身籠ってなかったら思いもしなかったことなんでしょうけど…」

 言いながら、雫が照れたようにはにかむ。
 九尾の狐である彼女にとってみれば、人間の道具である織機など本来なら一切の必要もない。
 人である冬耶と婚姻を結ばなければ、至極当然の流れで同族の雄と番になっていたことだろう。
 そうなっていたら、自らの手で作ったものを我が子へ贈る、というようなことは到底有り得なかった話だ。
 そもそも、狩ってきたものや取ってきたものを子に与えることはあっても、
 狐の子に何かしら作ったものを与えるということはまずない。
 よって言葉通り、人である冬耶の子を宿していなければ、
 自らの手で何かを作り、それを子どもに贈るということには考えもつかず、
 況してやその行動を素敵だなどとは思えなかっただろう。
 お腹の、冬耶との子どものために機を織るのは、なんだかとても幸せだった。
 至福に満ちた穏やかな時間だと思えたからこそ、始めはあまり好きではなかった機織りが楽しくなった。
 好きになった。

 「織った布で何作ってやるか決めたのか?」
 「…決めたというか、まだそれしか作れないから…
 …その、手拭い…に、冬耶が付けてくれた名前を刺繍しようかと思って…」

 機織り同様、本来なら必要ない針仕事がまだまだ苦手な雫にとって、
 簡単な繕い物以外に唯一まともに作ることが出来たのが手拭いだった。
 繕い物が一応出来るので、刺繍も一応出来る。
 だが本当にまだそれだけしか出来なかったので、名前入り手拭いを作ると言ったことで
 冬耶から笑われるに違いないと思った雫の言葉はだんだんと尻すぼみになっていった。
 同時にしょぼんと俯く。
 しかし、予想に反して冬耶は笑い声一つ立てなかった。
 それを不思議に思い、おずおず顔を上げて冬耶の様子を窺ってみれば、
 冬耶は酷く驚いたような顔をしていた。

 「そ、そんなに驚くようなことですか…?やっぱり変ですよね、手拭いなんて…」

 笑われるよりも衝撃だ。
 こういう時、人の世での常識がわからないのが辛い。
 益々雫の狐耳がしょんぼりと垂れ下がる。

 「いや、変じゃねぇよ。確かに意外だったから驚いたが…良いと思うぞ、凄く」
 「…本当?」
 「ああ。俺も子供の頃はどうしてかなかなか手放せなかった手拭いがあってな。俺の弟もそうだ。
 …まぁ、結局俺も弟もその気に入りの手拭いは『冴滌の男が女々しいぞ!』っつって
 親父から捨てられたけどな」
 「えっと…つまり?」
 「子供っていうのは、本当に小さい頃から使ってるものには並々ならぬ愛着を持つんだよ。
 しかも自分の名前入りっていうなら尚更だろう。手拭いならずっと使えるしな。
 良いと思うぞ。俺は賛成だ」

 納得出来る理由も挙げて賛成してくれた冬耶に、雫が花も綻ぶような笑顔を浮かべる。

 「じゃあ頑張って作ります!…それで、名前は決まったんですか?」

 雫の何気無い問い掛けに、ぐっと冬耶が言葉に詰まる。
 子の名前を考えているうちに転た寝をして起きたばかりだから尚更だ。
 別に真剣に考えていなかったわけでは決してないから気まずく思う必要は全くなかったが、
 うっかり寝てしまったということが何だか後ろめたかった。

 「…いや、まだだ」

 誤魔化すように頭を掻きながら弱ったように答える冬耶に、雫も苦笑する。
 生まれてくる我が子のために真剣に、より良い名前を付けようと悩んでくれるのは嬉しいが、
 そんなに悩みに悩みまくることもないのに、と狐である身としては思ってしまう。
 元来、狐には名を付けるという概念がないため、
 殊更に名前一つで大いに考え込む人間が不思議でならない。

 「早く決めてしまわないと、うちの父様やお祖父様が横槍入れて来ますよ?
 まだ決まらんのかー!って」
 「…それは困る。下手したら代わりに名前を決めてやるとか言われそうだから尚困る」

 雫の祖父や父親にそんなことを言い出されてしまったらもう逆らいようがない。
 何せ相手は神と神の眷族の長名代なのだから、只人の冬耶に逆らえるはずがなかった。

 「お前の名前が漢字一文字だろ?
 だから同じような漢字一文字の名前を考えてたんだが…なかなか、なぁ」
 「そんなに難しく考えなくても…。それに早いところ決めてあげないと、
 名前で呼んであげることも出来ないですよ?もう、駄目な父様ですねぇ」

 そう腹の中の子供に語りかける雫を見ていれば、駄目扱いされても不思議と腹は立たなかった。
 何より父様と呼ばれることが予想外に心地よく、気恥ずかしくて照れ隠しに一つゴホンと咳払いをする。

 「そうだな、早いところ決めてやらねぇと、布が織れても肝心の刺繍が出来ねぇもんな」

 冬耶の言葉にうんうんと雫が頷き、再び踏み板を踏み締める。
 経糸を上下に分けて開口させ、杼に繋いだ緯糸を開口させた経糸の間に通して反対側へと届かせる。
 そうして通った緯糸を筬で手前へと打ち、経糸と緯糸を組み込んでいく。
 手馴れた動作、とはまだ言えないものの、覚束無い手付きというほどのこともなく、
 慣れない織機に触れては糸を絡ませまくっていた頃がまるで懐かしい。
 暫く雫が糸を繰っている様子を感慨深げに眺めていた冬耶が、
 はたと何かに気付いたように「そういえば」と声を上げた。

 「機織りで思い出した。今日は七夕じゃなかったか?」
 「たなぼた?」
 「違う。た、な、ば、た。知らないか?」
 「知りません。何かする日なんですか?」

 きょとんとする雫に、そういえば七夕は大陸から伝わってきたものだから、
 雫も、この日ノ本の神である雫の祖父にも何の接点もないことに気付く。
 そもそも狐が七夕の話を知らなくても当然かと大いに納得した。

 「七夕っていうのは、まぁ平たく言えば願い事をする日だな。
 元々は大陸から伝わった話で、織女と牽牛が年に一度今日だけ会えるんだ」
 「織女と牽牛って誰ですか?どうして年に一度しか会えないんです?」

 妊娠を期に落ち着いてきたと思われた雫は、
 結婚前を思い出したかのように矢継ぎ早に質問を繰り出す。
 そんな雫を見て半ば呆れたように苦笑した冬耶は、
 はいはいと興奮する雫を宥めながら質問に答えてやる。
 織女は大陸で最も位の高い天帝と呼ばれる神の娘であり、
 機織りがとても上手いということで名の知れた娘だったということ。
 牽牛は牛飼いの青年で、とても働き者だったということ。
 互いに働き者だった二人が恋に落ち結婚すると、その結婚生活の楽しさ甘やかさから、
 途端に二人は四六時中一緒にいては仕事もしない怠け者になってしまった。
 それに怒った織女の父である天帝が、織女と牽牛を天ノ川を隔てた端と端へと引き離した。
 以来、七月七日の七夕だけにしか二人が会うことは許されていない。

 「…自業自得とはいえ、年に一度しか好きな人に会えないなんて嫌ですね。
 私、冬耶と一緒になって怠け者にならなくて良かった」
 「ああ…下手したら俺達も引き離されてたかもしれないからなぁ」

 流石に夜空の星になるということはないまでも、
 文字通り引き離されるということは十分有り得た話だった。
 冬耶自身が神である雫の祖父に認められなければ、
 あっさりとその神通力を以て雫との仲を引き裂かれていたことだろう。
 そして何より、神ではなくとも雫の父親が一番怖い。
 雫の話では雫の父親は神である祖父でさえ手玉に取ることがあるという。
 雫を不幸にしようものなら、凄絶な笑顔で地獄の底に叩き落とされるに違いないと、
 結婚の許しを得る時に覚悟を決めたものだ。

 「私はもう、大切な人と離れ離れになるのは嫌です。
 冬耶、その牽牛って人みたいに怠け者にならないで下さいね」
 「ならねぇよ。お前の祖父さんに左目治してもらって、
 今じゃ実家に剣術師範として駆り出されてはちゃんと稼いできてるだろ?」
 「…また目に怪我とかしないで下さいよ?」
 「わかってるよ。んなことになったらお前の顔も子どもの顔も見れないからな。
 …まぁでも、その牽牛と織女は折角の七夕だってのに今日は会えそうもないな」

 未だ、しとしと降り続ける雨の音に、天井を振り仰ぐ。
 勿論屋内からでは空など見えようはずがないが、
 本来なら今夜見えるはずだった星空へと思いを馳せた。
 雫も手を止めて冬耶に倣い、上方へと視線を移す。

 「…雨だから、織女と牽牛は会えないんですか?」
 「そうだ。天ノ川を渡って会いに行くそうだから、雲が掛かってれば天ノ川自体が現れないだろ。
 だから七夕に降る雨のことを洒涙雨っていって、
 会えないことで悲しんでいる織女と牽牛の涙だって言われてる」
 「じゃあ、この雨も洒涙雨?」
 「そうなるな」

 感心したように頷き、そのまま暫く黙って雨音を聞いていた雫だったが、
 一つ溜め息を吐くと視線を織機に戻した。
 手持ちぶさたに指先で杼を弄ぶ。

 「…やっぱり私、怠け者になって織女みたいにならなくて良かった」
 「どうした」
 「だって、冬耶に一年に一度しか会えないのも、
 雨だとその一年に一度も会えないのも耐えられません。こうしていつも、ずっと一緒にいたいです」

 傍らに立つ冬耶に寄り掛かりながら、そう溢す雫が堪らなく愛しくて、
 冬耶は自分の身体に寄り掛かってきた雫の頭をよしよしと撫でる。

 「俺達は牽牛と織女とは違って幸福者だろうさ。互いの親族には認められてるんだし、
 何より、もうすぐ子どもだって生まれる。これからは親子三人で、ずっと一緒だ」
 「親子三人で?」
 「親子三人で足りないなら四人でも五人でも、俺は一向に構わないぞ」
 「…?……っ!!」

 意味深に笑う冬耶の言葉の意味がわからなくて首を傾げた雫だったが、
 はたと冬耶の発言の意味するところに気付いた途端、その白磁の頬を真っ赤に染め上げた。
 要するに、今雫の腹の中にいる子どもだけでなく、
 また更に二人目三人目を作っても良いと冬耶は言っている。

 「俺はまだいくらでも頑張れるぞ?」
 「そ、そんなこと、がんばらなくていいです…っ!
 ま、まだこの子だって生まれてないうちから気が早いです!!」
 「…それもそうか。まぁ子どもは授かりモンだしな。
 ああでも、今日が七夕だったんなら笹竹取ってくれば良かったな」
 「笹?」

 どうしてここで笹が出てくるのかと雫が小首を傾げる。
 牽牛と織女の話はわかったが、それと笹竹に何の関係があるのかさっぱりわからなかった。
 伝説と、その辺りに群生している珍しくもない笹竹との間に関連性が見出だせない。

 「俺も書物で読んだ程度の知識だから眉唾物だけどな。
 この国に七夕の風習が伝わる前から笹竹は神聖なものとして扱われていたんだと」

 竹の子から、天へと向かって青々と太く真っ直ぐ伸びた親竹に育つまでの成長の速さに
 力強い生命力を感じると共に、強力な殺菌力を持つ笹の葉には魔除けの力があるとされていた。
 故に、昔から人々は笹竹を身を清めたり、魔を祓う儀式を執り行ったり、
 神々に祈りを捧げる際に用いていた。
 七夕の神とされる織女と牽牛に捧げ物をする時の目的として、
 神聖とされる笹竹を立てたことが始まりだという。

 「この捧げ物っていうのが、赤・青・黄・黒・白の五色布でな。
 裁縫や機織りが上達するよう願って、織女に捧げるんだと。今のお前にぴったりだろ?」
 「そりゃあ私機織り下手ですけど…でもどうせ上達するようお願いするんだったら、
 そんな大陸の見知らぬ神様よりお祖父様にお願いした方が確実じゃないですか?」
 「身も蓋もないこと言うなよ。
 大体な、七夕という日に、七夕の神に向かって願い事をするってことに意味があるんだろうが」

 そういうものですかねぇ…、と納得出来ないでいる雫に、そういうものだ、と冬耶がぴしゃりと言い放つ。
 それでもまだ納得いかないという顔をする雫を見て、冬耶もやれやれと苦笑を浮かべた。

 「…まぁ、俺にとっては機織りが上達するようにって願い事はあくまでもついでなんだよ。
 俺が笹竹を取ってこようと思ったのは子供のためだ」
 「この子の?」
 「ああ。言ったろ?笹竹は成長と生命力の象徴で魔除けの力があるって。
 だから、俺達の子が無事生まれて健やかに成長するように、そして悪いものから守ってやれるように、
 七夕に因んで取ってくりゃ良かったと思ってな」

 それを聞いて、雫の双眸が驚きに見開かれる。
 しかし途端に、その濃い琥珀の瞳には嬉しそうな色が湛えられた。

 「冬…っひゃ!?」
 「どうした?」
 「お、お腹…いま、赤ちゃんお腹蹴った。
 こんなに強く蹴られたの初めてだから吃驚しちゃいました…お腹蹴破られるかと思った」
 「…恐ろしいこと言うなよ」

 雫の例えがあまりにもアレだったために、うっかり想像してしまったらしい冬耶は思わず顔を顰める。
 かなり猟奇的な想像をしてしまい、それを打ち消すべく頭を振った。
 そんな冬耶の気持ちも露知らず、雫は大きく膨らんだ己の腹に両手をあてて様子を窺っている。
 そして、狐の耳がピンと跳ね上がった。

 「あっ、また!」

 ほら、と、雫が冬耶の手を取って腹へと触れさせる。
 掌越しとはいえ、ぽこんぽこんと元気すぎるほど元気に雫の腹を蹴っている我が子の胎動を感じて、
 冬耶も感嘆したように息を吐いた。

 「元気に超したことはないが、随分元気だな」
 「冬耶がこの子のために笹を取ってきてあげようとしたことを聞いて嬉しかったんじゃないですか?」

 ねぇ、と穏やかに笑いながら腹の中の我が子へと話し掛ける雫を見て、
 冬耶もそういうものかと納得する。
 そして同時に、来年こそは生まれてきた我が子のために笹を取ってきてやろうと気持ちを新たにする。
 年に一度しか会えず子もいない牽牛と織女には悪いが、と、
 冬耶は未だ雨の降り続ける頭上を降り仰いだ。
 来年も再来年も、そしてその翌年も、この幸せが続くように。
 こうして家族揃って穏やかに過ごせるようにと、雲に隠れる星々に向かって願いを込めた。



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