安らぎの檻 朽ち逝くとき−伍年後*前編−


「とおさま、とおさま」

少女は、暮らしなれた我が家を元気に駆け回り、舌足らずな口調で父親を呼ぶ。
呑気に縁側で爪を切っている父親の姿を見つけた少女は、
ぱっと明るい表情をいっぱいに浮かべ、父親の背中に飛び付いた。

「おわっ!」

勢い良く娘から体当たりをかまされた冬耶は、ガクンと上体が揺れると同時に、
爪を切るために使っていた小刀を取り落としてしまった。
自分もだが、危うく娘にも怪我をさせてしまう恐れがあったことに、
事なきを得てホッとしたのと同時に最悪の事態が頭をよぎって血の気が引いた。

「あっ、周!危ないだろう!父様が刃物を使ってる時は側に来るなとあれほど…」
「ごめんなさい…」

叱られて、しゅんと落ち込んでしまった娘の周を見て、叱った冬耶の方が逆にたじろいでしまう。
父親の威厳も何もかもかなぐり捨てて、べたべたに甘やかしてしまいたいくらいに
目に入れても痛くないほど可愛い娘を怒鳴りつけてしまい、軽く自己嫌悪に陥った。
ぐすぐすと鼻をすすって泣き出してしまった周を抱え、
膝の上に乗せてやりながら、冬耶は泣く娘の頭を撫でてやる。

「…悪かった。父様怒りすぎたな」

よしよしと父親から優しく頭を、そして背中も撫でられ、
周もだんだん落ち着きを取り戻していった。

「…とおさま、もうおこってない?」
「怒ってないよ」

安心させるように笑いかけてやれば、周も涙と鼻水とでぐちゃぐちゃに濡れた顔で満面の笑みを返す。
折角母親に似て花も綻ぶような可愛らしい容貌をしているのに、
今の状態だと折角の愛らしさも残念なことになっている。
やれやれ、と懐紙で周の顔を拭ってやりながら冬耶は娘に問いかけるべく口を開いた。

「それはそうと、父様に用があったんじゃないのか?」
「あっ!えっとね、うんとね、とおさまに聞きたいことがあったの」
「聞きたいこと?」
「あのね、なつひこに言われたの。あまねのお耳はかわってるねって」

なつひこ…夏彦とは、冬耶の弟の息子、つまり周にとっては従兄弟にあたる少年のことだ。
たまに父親に連れられ、冬耶達家族の住むこの家に遊びに来る。
周とも歳が近い為か仲も良い。
だが、親が気づかぬうちに子供たちの間でそういう話がなされていたとは。

周の耳は、母親であり九尾狐である雫の血を濃く受け継いでしまった影響か、
人間のような耳ではなく獣の耳をしている。
ふわふわと柔らかそうな毛に包まれたそれは、雫のものとそっくりだ。
幸い冬耶達が住む村では、九尾狐は尊いものとして崇められ、九尾狐たる雫自身や、
その子供である周も神童として村人達から慕われ可愛がられている。

そのため、周の耳について追求する者もなく、周が同年代の子供達から苛められることもなかったが、
やはり村の外の人間である夏彦には周の耳は不思議で仕方がなかったらしい。
冬耶にとっても夏彦は可愛い甥っ子だが、今回のことは流石に余計なことを…!
と思わずにはいられなかった。

「ねぇとおさま、何であまねのお耳はとおさまやなつひこのお耳とはちがうの?」
「あー…それはなぁ…」
「周は雫似だからだよ」

冬耶が説明に困っていると、背後から涼やかな声が響いた。
冬耶の背後、庭に視線を走らせれば、そこにはいつからいたのか一匹の狐が佇んでいた。
九つの長い尾を持つその狐は、すいと冬耶が腰を下ろしている縁側の近くまでやってくる。
軽やかに跳躍し、静かに冬耶の隣に降り立った。

「あっ、あさつゆー!」

その狐の姿を目に捉えた途端、周は雫譲りの獣耳を嬉しそうにピンと立てた。
冬耶の膝から降り、狐の元に駆け寄る。
そのまま、自分より大きな狐の躯にモフッと抱き付いた。
狐も、自分に飛びついてきた周に穏やかな視線を向けている。

「なんだ。また来たのかよ、朝露」
「なんだとはご挨拶だな。僕は別に君に会いに来たつもりはないんだよ。
僕が会いたいのは可愛い周と愛しい雫にだけさ。君はどうでもいい。いや、むしろ邪魔でしかない」
「愛しいとか言うな!雫は俺のだ!周が可愛いのは俺と雫の子だから当然だけどな」
「周は雫そっくりだから可愛いんだよ。君に似たりしたら可哀想だ」

朝露と呼ばれた狐は、冬耶と言い争いながら、すりすりと周に頬擦りする。
父親である冬耶を挑発するような態度に、冬耶のこめかみに青筋が浮かぶ。
しかし、そんな父の様子にも気付かず、周も朝露のふわふわした毛皮が気持ちいいのか、
きゃっきゃと笑って一層強く朝露の躯に抱き付いた。

「ねーあさつゆ、あまねのお耳はかあさまににてるからこんなお耳なの?」
「そうだよ、僕ともお揃い」

耳をぴくぴくと揺らして、お揃いを強調する朝露に、周も嬉しそうに笑う。
しかし、はたと何かに気付いたらしい周は、じっと朝露を見詰めた。

「どうしたの?周」
「…あさつゆ、おっきくなったらお耳ないよ?おっきくなったらお耳おそろいじゃなくなるよ?」

おっきくなったら…つまり、人の姿をとった時の朝露を思い出したらしい。

「そうだよなぁ。周の言う通りだよなぁ。お前人の姿の時は、その自慢の耳はなくなるじゃねぇか。
残念だったな、周とお揃いじゃなくて」

周を奪還しながら、喧嘩腰に挑発してくる冬耶に、朝露も不愉快だというように尾を揺らす。
そして、次の瞬間、朝露の周りの空気がぐにゃりと歪んだ。
その異様な光景が再び元の状態に戻っていった時、
九尾の尾を持つ狐がいた場所には妖艶な雰囲気を纏った美しい青年が佇んでいた。
狐と同じ、極度に薄い琥珀色をした髪と、燃えるように紅い瞳、
そして透き通るように白い肌が印象的な青年だ。

「あさつゆー」

冬耶の脇に抱えられた状態で、周は一際嬉しそうにはしゃぎたてた。
冬耶譲りの黒髪に潜り込んでいる狐耳も、周の感情の起伏に合わせて、
ぴんと立ったり伏せられたりピクピク揺れたりと忙しそうに存在を主張している。

「とおさま、あまね、あさつゆのところいくー。おろしてー」

じたばたと両手両足をバタつかせる周に不意をつかれ、うっかり冬耶は周から手を離してしまう。
しまった、と思った時には時すでに遅く、周は元気に朝露に向かって駆け出した後だった。

「おっきいあさつゆー!」

がばっと再び跳び付いてきた周を、朝露は優しく抱き留める。
そのまま、高い高いの要領で周の小さな身体を抱え上げた。
高いところが大好きな周も、キャッキャと楽しそうにはしゃいでいる。

「周は今日も可愛いねぇ」

そのまま周を引き寄せて抱き締めた朝露は、冬耶同様周のことを目に入れても痛くないというほどの
慈愛に満ちた声音で可愛い可愛いと連発する。
すりすりと再度朝露から頬擦りされて、周もくすぐったいのか楽しいのか常に笑顔満面だ。
きゃー、と嬉しげに可愛らしい声を上げている。

「周!そいつから離れろ!ほら、父様のところに来い!!」
「あまね、まだあさつゆとあそびたーい」
「野暮なこと言うんじゃないよ、冬耶。まったく、これだから人間の男ってのは心が狭くていけないねぇ。
君は二度も僕の恋路を邪魔しようっていうのかい?」
「恋路ィ?!」

聞き捨てならないような言葉が朝露の口から発せられ、冬耶は仰天して声を荒げた。
朝露曰く、二度の恋路。
一度目の相手は言わずとしれた雫のことだ。
元々九尾の一族内の取り決めとはいえ、許婚同士だった朝露と雫の間に割って入り、
雫を横取りしてしまったと言っても過言ではないようなことをしてしまったのは間違いなく冬耶だ。
雫自身も朝露と一緒になることを断固拒絶していたが、
一般的見地からすると冬耶と雫の関係は略奪愛の末の略奪婚と言えるだろう。
そのことは事実なのだから、それについての誹りは甘んじて受けるつもりだ。

だが、しかし。

二度目の恋路とはどういうことか。
この状況において、朝露の二度目の恋路の相手は周以外にいない。

「おまっ、お前、まさか周を…!!」
「僕は周が大好きだよ」
「あまねもー!あまねもあさつゆ大好きー!」
「ほら、周も僕が大好きだって。僕らは相思相愛なんだ。邪魔するなんて野暮の極みだよ」

ねー、と異口同音に同意を表す二人は、端から見ても大変仲睦まじい。
しかし、父親としても、私怨的見解からしても絶対に認めるわけにはいかない。
認めたくない。

「じょ、冗談じゃねぇ!そんなの認められるか!お前みたいな奴に周はやらん!!」
「お前みたいな奴とはなんだい、聞き捨てならないね!」
「こんな小さい子供に対して愛だの恋だの抜かしてる危ない奴に払う礼儀なんてねぇよ!」
「この僕の崇高且つ純粋な想いを理解出来ないとは本当に愚かな男だな、君という人間は!」

醜い言い争いに発展した冬耶と朝露のやり取りに、周はおろおろと二人の顔を交互に見渡す。

そして何度か、幼心に大好きな父親と、大好きなお兄ちゃんの顔を見比べた後、
一気に周の表情が歪んでしまった。
うるっ、と髪同様冬耶譲りの黒曜の眸が涙で潤み、みるみるうちにその瞳に涙が溜まっていく。
そして堰を切ったかのように溢れ出した涙は、ボロボロと周の頬を伝い落ちていった。
同時に周自身も大きくしゃくりあげる。

「だっ、だめなの…!とおさまもあさつゆもケンカしちゃダメー!」

叫ぶが早いか、途端に周は声を上げて泣き出してしまった。
大好きな二人が怖い顔をして言い争う姿に耐えきれなくなったらしい。
わんわん声を上げて泣きじゃくる周に仰天したのは冬耶と朝露の方だった。
泣く周を、冬耶は父親として必死にあやし、
朝露はどうすることも出来ずにおろおろと見守ることしか出来ない。
いくらあやされても、周は一向に泣き止む気配を見せなかった。
益々冬耶と朝露も途方に暮れて表情を曇らせる。

「何の騒ぎですか?」

と、そこへ姿を現したのは雫だった。
金色と見紛うばかりの美しい琥珀の髪を一つに括り、肩口に垂らしている姿は、
昔とは比べものにならないくらいに落ち着いた大人の女性を思わせる。
そんな、いつも見慣れている雫の姿が今の状況下にある冬耶と朝露にはまるで救世主のように目に映った。

「雫、いいところに来た!」
「ああ、雫!今日の君はいつもにも増して、まるで女神のようだよ!それも救いの女神だ…!!」

朝露の歯が浮くような台詞はいつものことだが、今日は冬耶までがしきりに頷いている。
物凄く怪訝な顔をした雫は、冬耶の腕の中で泣きじゃくっている愛娘に視線を移した。

「それで、どうして周が泣いてるんですか?冬耶も朝露も、周に一体何をしたんです」

周から視線を外し、じろりと男二人を一瞥する。
たじたじと情けない表情を一様に浮かべた冬耶と朝露に、雫も呆れたように溜め息を吐いた。

「かあさまぁ…」

またしても涙で顔をぐしょぐしょにしながら腕を伸ばしてくる周を、冬耶の腕の中から抱き上げる。
着物を握り締めてしがみついてくる周の背中を軽く叩いてあやしてやりながら、
雫は事の詳細を周から聞くべく口を開いた。
冬耶や朝露の話はアテにならない。
素直で正直な子供に聞くのが一番だ。

「周、どうして泣くんです?冬耶と朝露が周をいじめました?」
「ううん。とうさまもあさつゆも、そんなことしないよ」

ぐしぐしと冬耶から受け取った懐紙で周の鼻を拭ってやりながら問い掛けてきた母の言葉に、
周は首を横に振る。
事実、問い掛けてはみたものの、周に対しては過保護すぎるくらいに甘い冬耶と朝露が
周をいじめるとは考えにくいと雫自身もわかっていた。

「じゃあ、どうして泣いていたんです?」
「…あのね、とおさまとあさつゆ、すぐケンカするの。
とおさまとあさつゆ、すっごくこわいおかおになってね、すっごくすっごくこわいの。ヤなの」

母親に抱かれていることで安心したのか、やっと泣き止んだ周の訴えを聞いた瞬間、
雫はスッと目を細めた。
それに気付いた男二人が、ギクリと身を竦める。
雫からの冷めた視線を受けて、冬耶と朝露は居心地悪そうに身じろいだ。

「…冬耶、朝露、あれほど周の前で醜い争いを見せるなと言っていたのに、
二人とも私の話を聞いていなかったんですか?それともその頭と耳は飾りですか!」
「いや雫、これには深いワケが…!!
俺はただ、父親として可愛い娘の身をどこぞの狐の皮被った馬の骨から守ろうとしてだな!」
「狐の皮を被った馬の骨とは何だい!僕は血筋正しい九尾狐だよ。
あんな人間に使役されるだけしか能のない哀れな動物と一緒にしないで欲しいね」
「そういうことを言ってるんじゃねぇ!馬の骨っていうのは物の喩えだ!」

またしても下らない言い争いを始めようとした冬耶と朝露を睨み付けて黙らせ、
雫は冬耶に向き直る。

「で、朝露が周に何をしたんですか?」
「ちょっと待って雫!それじゃあまるで僕が周に悪いことでもしたみたいじゃないか!」
「朝露がしたことが周にとって良いことか悪いことか、それを判断するのは親である私の役目です」
「そんなこと言われても、僕は本当に何もしてないんだよ…」

弱り切ったというような表情で、朝露はとりつく島もない態度を取っている雫の機嫌を窺うように、
許しを乞うように見上げた。
雫が更に口を開こうとした時、周がしがみついていた雫の襟をクイクイと引っ張り、
二の句が継げられるのを遮った。

「かあさま、おっきいあさつゆ、あまねになにもしてないよ?」
「え?」

どうして朝露を疑うの?というような眼差しを向けてくる娘からの言葉に、
雫の口から驚きの声が漏れる。
ほら!と言いたげな朝露からの視線も受け、雫はどういうことかと冬耶を睨み付けた。

「冬耶!」
「だから落ち着けって!兎に角俺の話を聞け!
周にはわからないだろうが、この得も言われぬ複雑な気持ちは親にしかわからないことだと思うぞ。
親心ってヤツだ」
「御託は良いから何があったのか教えて下さい。さっぱりワケがわかりません。結局朝露は何をしたんです」
「なんだい、大袈裟な。僕はただ周のことが大好きだって、そう言っただけだよ」

それの何がいけないんだい?と訊ねてくる朝露の説明を聞く限りでは、
特に複雑な気分になるような要素もない。
雫からしてみれば、可愛い愛娘を他人(他狐?)からも可愛がってもらえて嬉しいとしか思えなかった。
何をそんなに目くじらを立てる必要があるのかと思えば、周を溺愛している冬耶のことだ。
大方朝露に懐いている周を見て、父親として朝露に嫉妬したのだろう。
雫がそんな結論を出そうとした時、冬耶がぼそりと口を開いた。

「いくら俺がお前らの間に割り入った形で雫を嫁にしたからって、
今度は周との恋路の邪魔をするなとも言われりゃ、親として黙ってられるわけねぇだろ」

吐き捨てるような冬耶の呟きは、はっきりと雫の耳にも届いた。
途端、雫はこれ以上ないほど眉を顰める。
複雑極まりない心境を、その顰めっ面で表現しながら、
雫は朝露をまるで品定めするかのような視線で上から下までを何度も舐めるように見詰めた。

「…朝露、周を私の代わりとして見てるんですか?」
「雫の代わり?周を?そんなわけないじゃないか。僕は雫も周もそれぞれがちゃんと大好きだよ。
そりゃあ周は君の娘だからね、似てるとは思うけど。でもそれだけだよ。
周は周だから可愛くて好きだって僕は思ってるけど」
「あまねもー。キツネさんのあさつゆも、おっきいあさつゆも、どっちもだいすきー!」

大好きな朝露から再度可愛いやら好きやらと並べ立てられ、
周も元気が出てきたのか声を張り上げる。
はいはい、と周を軽く受け流し、雫は尚も朝露に問い掛けた。

「朝露は、周が成長したら娶りたいと思ってるんですか?」
「勿論、思ってるよ」

さらりと言ってのけた朝露の答えに、冬耶が後ろで言葉にならない絶叫を上げた。
それを宥めながら、雫は続ける。

「昔私が冬耶と一緒になるって決めた時、言ってましたよね。
人間と私達九尾狐とは生きられる年月も違う、いつまでも二人でいることは出来ない。
後々自分で自分を苦しめることになるだけだって。…周も、半分は人間ですよ?
朝露を置いて、先に逝ってしまうかもしれない。それでも良いんですか?」
「構わないよ。そりゃあ僕もね、考えてみたさ。でも、いくら考えても答えは同じなんだ。
後々僕が周を喪うことで苦しむことになっても、周を他の男に盗られることで辛さや悔しさといったものを
味わうよりマシかなって。周と一緒に少しでも長く過ごせたら、僕はそれが一番かな。
今なら、雫が人間と共に生きることを決めた気持ちも少しはわかるよ」
「…俺に対する当て付けかよ」

他の男に盗られるくだりは、冬耶にとっても耳が痛い話だ。

「でもな、それとこれとは話が別だ!俺は!父親として!
お前みたいな幼女趣味の危ない奴に周はやらん!!」
「変な言いがかりは止してほしいね!僕は幼女趣味なんじゃなくて周が好きなんだ!
幼ければ誰でも良いみたいな言い方されるのは心外だよ!!」
「だからその平気で好きだとかいう台詞を並べ立てるのは止めろ!薄ら寒いんだよ!
兎に角、俺はお前が周の婿になるなんて絶対に認めねぇからな!!」
「ふん、別に認めてもらう必要はないね。僕は周の婿になる気はないよ、僕が周を嫁にするんだ」

再びギャーギャーと喚き始める二人に、雫の腕の中の周もふぇふぇとまた泣きそうになっている。
周の背中を撫でてあやしてやりながら、雫は懲りない夫と元許婚の二人を呆れたように見やった。
周が生まれる前はピリピリギスギスしていた冬耶と朝露が、
こんな風に膝を突き合わせているというだけでも当時からすれば考えられなかったことだが、
これはこれで五月蝿い。
何より冬耶と朝露の仲の緩和剤であるはずの周を泣かせてしまっては意味がないだろう。
男二人の下らないやり取りを、ただただ雫は面倒臭そうに眺めるだけだった。

「おい雫!お前もぽけっとしてないで、この幼女趣味の変態野郎になんとか言ってやれ!
こんな、母親がダメなら娘に鞍替えして手ェ出そうとするようなちゃらんぽらん、
お前だって認めないだろ?!」
「…冬耶だって、昔はちゃらんぽらんだったじゃないですか」

私ほっぽらかして他の女のとこ行ってたじゃないですか、と、
雫がツンと不機嫌そうに答える。
どの口が言うか、と。
実際は雫と共に旅をし始めた頃の話で、お互いまだなんとも思っていなかった時分のことなのだが、
ちゃらんぽらんな行為であったことに間違いはない。
引き合いに出されてしまい、ぐぅの音も出なくなった冬耶は二の句を継げず必死に言葉を探している。

「…それに、私は周がいいのなら特に反対はしませんよ」
「雫…!やっぱり雫は話がわかるなぁ!狭量なこの男とは大違いだ」
「周がもっと大きくなって、それでもまだ朝露を選ぶというのなら、って話ですよ。
娶る娶らないって話も最低あと10年は先の話ですからね」
「10年なんてあっという間じゃないか。ああ、周を僕の妻に迎える日が楽しみだよ…!!
10年後には周は一層美しくなってるだろうなぁ。待ち遠しいよ…」

あっという間と言いつつ待ち遠しいと矛盾したことを口にする朝露は、
しかし、うっとりと10年後の未来に思いを馳せていた。
成長した周が朝露ではなく別の男性を選ぶという可能性は端から頭にないらしい。
冬耶の、娘を守ろうとする必死の反論も一切聞こえていない。
完全に自分の妄想の世界に浸ってしまっている。
そんな朝露を見て、雫はやれやれと溜め息を吐いた。
興奮のあまり、血圧急上昇で今にも血管が千切れそうになっている夫を宥めて落ち着かせながら、
朝露に向き直る。
雫は朝露を見て、しみじみと呟いた。

「本当に、貴方は外見だけじゃなくて性格までお祖父様にそっくりなんですから」

好きな相手を溺愛・偏愛するところがそっくりだと、雫は朝露をそう評する。
しかし、当の朝露はまったくけろりとしたものだった。

「偉大なお祖父様と似ているというのは、僕にしてみれば誇らしい限りなんだけどな」

雫と朝露の祖父は、俗に言う稲荷神にあたる。
厳密に言えば雫と朝露は純粋な九尾狐ではないものの、祖父が神、
祖母が九尾狐の一族の長であるため純粋な他の九尾狐よりも自然と尊ばれる立場にあった。
それに比例するように無駄に矜持までが高くなってしまっているのが玉に瑕なのだが。

「確か、お前らの祖父さんって稲荷神だったよな?…神に似てるってのか?こいつが?」

神というものの認識を改めなくてはいけないかもしれないと、冬耶はあからさまに渋面を作った。
こんなに傍迷惑な朝露と似ている且つ偉大だといわしめる稲荷神とは
果たしてどのような人(神)物なのか、そういえば雫にも聞いたことがなかった。
雫もどう答えたものかと首を傾げてしまっているが、ぽつぽつと言葉を選びながら説明を口にする。

「私達のお祖父様は、まだ人間で言う少女の頃のお祖母様が人間に化けていた姿を見初めて
妻に迎えたという話ですから、その辺りの趣味が朝露にそっくりでしょう?
そりゃあ、当時のお祖母様は勿論周よりも年上でしたけど」
「僕らのお祖父様とお祖母様の馴れ初めの話は、
僕ら九尾狐の間でも伝説として語り継がれているくらい素晴らしい話だからね。
そんなお祖父様と好みが似ているなら僕は本望だよ」
「伝説って…そんな大層な話なのかよ」
「結構大層ですよ。何百年か前の話ですけど、元々お祖母様は人間に恋していたんですって。
その人間は当時の今上帝だったそうで、どうしても今上帝の傍にいたかったお祖母様は人間の姿に化けて
玉藻前と名乗って今上帝に近付いたんだそうです」

今上帝の女御として入内することが出来た玉藻前は、今上帝からの寵愛を欲しいままにした。
彼女にとっては、ただただ愛しい相手を愛し、そして愛された幸せな一時だった。
けれど、ふとしたことから正体がばれ、玉藻前の正体におそれをなした人間達が
一方的に目的は今上帝の命だと決め付け、危険視した末に彼女を始末しようとした。
ただ一人の人間を愛しただけなのに、悪さをしたわけでもないのに退治と銘打たれ、
殺される間際までいった。
それを知った玉藻前の兄弟が稲荷神に救いを求め、
稲荷神は退屈しのぎにとその願いを叶えてやることにした。
今後、九尾狐一族郎党全てが自分に仕えることを条件に。
そうして玉藻前を救った稲荷神は、初めて目にした玉藻前に惚れ込み、
傷心の彼女を心から支えた。
無論、愚かな人間達への私怨混じりの神罰も忘れずに下すという抜け目もない。
そうして年月を掛け、稲荷神と玉藻前は夫婦となった。
同時に九尾狐の一族も神の眷族として栄えるに至る。

簡単に雫から伝説と化した出来事のあらましを聞き、冬耶は感心したように溜め息を吐いた。
確かに大層な話だ。

「でも、その話を聞く限り、お前もお前の祖母さんに似てるな。境遇のあたりとか特に」
「なんだい、それは。自画自賛のつもりかい?嫌味な性格してるね、君は」

人間を好きになってしまったところが雫と雫の祖母の共通点であることから、
朝露は冬耶を蔑むように見た。
人間であり、現在雫の夫である冬耶がそういうことを口にしても、
雫の元許婚であった朝露からしてみれば嫌みにしか聞こえない。
確かに今は雫に未練があるどころか周の方にぞっこんではあるが、それとこれとはまた話が別だ。
これはもはや矜持の問題だった。
しかし、当の冬耶は朝露から嫌み扱いされ、面食らったような表情を浮かべている。
本人にしてみれば嫌味のつもりは全くなかったらしい。

「いや、俺は俺のことじゃなくて、こいつの前の飼い主のことを言ったつもりだったんだがな…」
「飼い主ってなんですか。漣様を変な呼び方で呼ばないで下さい」

臍を曲げて、ツンとそっぽを向いてしまった雫に失言だったと詫びながら、
冬耶はチラリと朝露に視線を向ける。
朝露は何かを思い出したように、ああと呟きながらポンと手を打った。
「誰かと思えば、雫が懐いていた人間のことか。そうそう、漣とかいう名前だったね、そういえば」

基本的に人間のことは覚える気がさらさらない朝露にとって、漣──瀧川漣のことを思い出すには
少々手間がかかったようだが、記憶の片隅にしっかりと残っていたらしい。
あの人間かぁ、と呟く朝露を見て、
置いてきぼり状態で雫の膝の上から大人達の話を聞いていた周が堪らず声をかけた。
母方の曾祖父母の話はお伽話として黙って聞くことが出来たが、
全く知らない人の話を聞いてもつまらないし、何よりサッパリわからない。
どうにか退屈な状況を脱しようと、周は奮闘することにした。
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