JOKER


猫の泣き声 第2話

「……ん、んん…?」


耳をくすぐる小鳥の囀りと、カーテン越しに射し込んでくる早朝の明かりに否応なく目覚めを強いられる。
むくりと体を起こし、時計を見やれば、時刻は既に午前6時を回っていた。


「…しまった、寝ちゃってた」


やってしまった、と愚痴を零すシゼルの隣では、アンジェが天使のような愛らしい寝顔で健やかな寝息を立てている。
昨夜、アンジェに強請られるがままに絵本を読んでやり、寝入ったアンジェの寝顔を眺めているうちにシゼル自身もうっかり眠ってしまっていたらしい。


「…ごめんね、アンジェ。僕もう戻らなきゃ。また来るね」


ちゅっ、と別れの挨拶として額にキスを落としてやれば、夢の中のアンジェもくすぐったそうに身じろぐ。
ほんのり笑顔を浮かべているアンジェに、シゼルも自然と微笑をこぼしている。


「またね、アンジェ」


囁くように言いおいて、シゼルは静かにアンジェの部屋を出た。

階下に降れば、キッチンからキラが顔を出した。
シゼルの姿を目に捉えたらしいキラは、そのままシゼルの元まで寄ってくる。
そんなキラを見て、相変わらず呑気そうな顔だと思った。


「おー寝坊助。やっと起きたのか」
「相変わらず無駄に早起きですね、あなたは」
「無駄にとは何だ。俺はな、朝飯の準備に洗濯にと、やらなきゃいけないことが山積みで忙しいんだぞ」
「…どこの主婦…いや、主夫ですか」
「しょうがねぇだろうが。そんなこと言うなら、ココにいる間はお前も手伝えよ」
「嫌ですよ。何が悲しくてアッチでもコッチでも家事しなくちゃいけないんですか」


嫌な顔をするシゼルに、なら文句言うな!と喚きたいのを抑えて、キラは平静を装いつつ話題を変える。


「そういや、アンジェは?まだ寝てんのか?」
「ええ。起こすのも可哀想ですし、そのまま寝かせてますよ。…ルノは…まだ寝てますよねぇ」
「寝てるだろ。低血圧は寝起きが悪くて困っちまうよなぁ」


やれやれ、という風に溜め息を吐くキラに、シゼルも同意して頷く。
ルノは自他共に認める低血圧で、普段の寝起きはすこぶる悪い。
悪いというより、最早危険の域に達している。
下手に起こそうものなら、条件反射で撃ち殺される危険性が高いというくらい、寝起きのルノは手に負えない。
ルノが自分で起きて来るまで手を出さない方が無難なのだと、キラもシゼルもその長い付き合いから身を持って知っている。
…否、知ることになった。


「ま、アンジェはもう少ししたら起こしに行かないといけないけどな。お前はもう戻るのか?」
「ボスから呼び出されてるんで戻りますよ。元々泊まるつもりもありませんでしたしね」
「ふーん、こんな朝っぱらからお前も忙しいな」
「あなたと違ってね。それじゃ、ルノとアンジェに宜しく言っといて下さい」


憎まれ口を叩きながら、シゼルが一歩踏み出したその時…


「シゼル、待て!」


キラが慌てた声でシゼルを呼び止めた。


「…何ですか?そんな犬の躾みたいな呼び止め方しないで下さいよ」


微妙な表情で振り向けば、何やらキラはその長身を屈めて何かを拾い上げている。
銀色に輝くそれが何なのか認識した途端、シゼルは驚いたように瞠目し、慌てて自分の首筋に手をやった。
そこに、慣れ親しんだ物はない。


「これ、お前のだろ?紐切れちまったみたいだな」


ほれ、と投げて渡されたのは、シゼルがいつも身に付けているチョーカーだ。
銀細工のアクセサリー自体は欠けることも傷が入ることもなく無傷で綺麗なものだったが、見事なまでに中心辺りで紐が切れ、紐を新しいものに取り替えなくては
もうチョーカーとして使えそうにない。
戸惑ったように掌に乗せたそれを見ているシゼルを見て、むしろキラの方が怪訝な顔をする。
たかだかチョーカー一つに、らしくない顔をするシゼルが不思議で仕方がない。


「…それ、大切なものだったのか?でも単に紐が切れただけだろ?紐さえ取り替えれば今まで通り使えるじゃねぇか!な?」


何とか慰めようとしてくれているらしいキラの気遣いに気付いたシゼルは、呆れと困惑が入り混じったような苦笑を向けた。
別に落ち込んでいるわけではない。


「勘違いしないで下さいね、僕は落ち込んでるんじゃありませんよ。…ただ、不吉な感じがするなと思ってただけです」
「な、なんだよ、紛らわしい顔すんなよな…。でも、確かにいきなり紐が切れるとか縁起悪いよな」
「迷信はあまり信じる方じゃないんですけどね…」


だが、今日に限ってはその迷信が迷信だとは思えないような気がした。
脳裏に今朝の懐かしい夢がチラついて離れない。
シゼルは紐の切れたチョーカーをポケットに押し込むと、そのまま踵を返した。


「じゃ、今度こそ帰ります」
「おー、ボスによろしく!帰り道、不吉な目に遭わないように気ィ付けろよ〜」


結局、終始呑気だったキラの声を背中に受けながら、シゼルはルノの邸を後にした。



――…まだ早朝と言える時間帯なため、街中はシンと静まり返った冬独特の空気に満たされている。
天を仰げば、そこには一面真っ青な晴天の空が広がっていた。
冷たく澄んだ空気を肌に感じながら、シゼルは歩を進める。
無造作にポケットに突っ込んだ手には、ひやりとした金属の感触がある。
先程ポケットに入れたチョーカーをしっかりと握り締めたシゼルの表情は、やはり浮かない。
どうしても、今朝の夢が気になって仕方がなかった。

…まだ組織に入る前、ボスとルノに出逢うより以前の悪夢のような時。
その中でも唯一の希望だった、足下を照らす暖かな灯りのような存在でいてくれた年上の少女と過ごした、ほんの僅かな時間の夢。

彼女と過ごしたのは、あの地獄のような牢獄から逃げ出す前の、たった数ヶ月だけだった。
牢獄からの脱出を決行した時に彼女はシゼルを…イシェリアを庇って主人に捕まってしまった。
ファルファのおかげで逃げおおせたイシェリアは、偶然に出逢った殺し屋組織の女ボスに拾われ、そのボスからシゼルという名前をもらった。
自らも殺し屋になるべく育てられ、毒に慣れる訓練は兎に角辛く苦しいものだったが、訓練以外の時間は恐怖に震える必要もなく、ルノも、ボスも、何だかんだと傍にいてくれた。
何より、ファルファのくれた自由だと思えば弱音を吐いてなどいられなかった。
そうして、ファルファから貰ったアクセサリーをチョーカーとして一時も肌身離さず身に付け、今日まで生き延びてきた。

それが今になって、よりにもよって懐かしい夢を見たその日にチョーカーの紐が切れるとは、まるで何かの暗示のようで落ち着かない。
紐が切れるまでは、今朝の夢を見たのはアンジェの寝顔がファルファと重なっただけだからだと思っていたのに。
単に当時のファルファが今のアンジェと同い年だったから見た夢だと思っていたのに。

…彼女は今、どうしているのだろう。
主人に捕まって、どうなってしまっただろう。
無事ならば、今27歳になっているはずの彼女は、一体どんな女性になっているのだろうか。
10歳未満の幼い子供が好きだった主人からは既に解放されているはずだ。
どうか無事に生きていてほしい。
どうか元気に暮らしていてほしい。
どうか、あんな辛い過去を持った身であっても普通の幸せを掴んでいてほしい。
そんな、答えのわからない考えばかりが頭の中をループする。


「ファルファ…」


思わず、ファルファの名前を口にする。
呟きのように零れた声は、白くなった吐息と共に青く澄んだ空に溶けていった。