JOKER


猫の泣き声 第3話

「ただいま戻りました…」


こっそりと小声で帰宅を告げながらシゼルは建物内に足を踏み入れた。
不可抗力とはいえ、仕事以外でボスの許可なく勝手に朝帰りしてしまった手前、忍び足になってしまうのはどうしようもないことだった。
それもボスに呼び出しを食らっていた日ならば尚更だ。
ボスがまだ夢の中にいてくれることを切に願う。
加えて、ごくごく個人的に最も朝帰りをばれたくない相手もいた。
やましいことなど何もないが、ばれるとなんとなく気まずい間柄の相手だ。
そんなことを考えながらコソコソしていると、


「おかえり」


と、背後から声が投げかけられた。
良く知ったその低い声に、思わずシゼルは飛び上がる。
つい今しがた考えていた、最も朝帰りがばれたくない相手にいきなり見つかってしまった。
恐る恐る振り返れば、やはりそこには嫌というほど良く見知った男がいた。
燃える炎のように鮮やかな赤い髪、そしてピジョンブラッドを思わせる美しい真紅の眸。
見上げるほどに背の高いその男は、狼狽えるシゼルを見て悠然と微笑んでいる。


「き、キース…!何ですか、もう!驚かさないで下さいよ…!!」


なんでそんなに早起きなんですか!と、早鐘を鳴らす心臓を抑えながら、シゼルは背後から声をかけてきた男に文句を飛ばした。
半ば八つ当たりも同然だが、いつもは寝ている時間帯のはずなのに今日に限って早起きだなんて納得出来ない。
そう恨みがましく眼前の男を睨め上げれば、当の本人は「悪い悪い」とちっとも悪びれずに笑う。


「だってなぁ、ああも挙動不審だとからかいたくなるだろう?普通」
「そんなの貴方だけですよ!」
「まぁそう怒るな。悪かったって。それで、何をそんなにビクついてるんだ?こんな朝っぱらから」
「いや、その…ボスがまだ起きてないといいなぁ…と思って…」


歯切れが悪いシゼルの言葉に、キースも黙ってシゼルの言葉の裏を探っているようだった。
そして、ああ、とシゼルの真意を悟ったように口を開く。


「外泊を咎められないか心配してるのか。朝帰りなぁ…。やるな、お前も」


からかいと、気のせいか少しの冷たさを交えた口調で言われ、売り言葉に買い言葉。
シゼルもフンと虚勢を張る。


「お姫様が離してくれなかったんですよ」


お姫様とは言わずもがな、アンジェのことだ。
この表現でキースも宿泊先がルノの邸、ひいてはアンジェの部屋だとわかったはずなのだが、何故だかキースは口元に手を当てて笑い出してしまった。
面食らってシゼルが反応に困っていると、キースは笑いすぎて苦しいといった風に口を開く。


「じ、自分がお姫様みたいな顔しておいて…お姫様が離してくれないってお前…!」


腹を抱えてまで笑い続けるキースに対し、突っ込みどころはそこなのか!と泣きたくなってしまう。


「僕が可愛いのはわかりきってることだからいいんですよ!もう、いつまで笑ってるんですか!失礼にも程があるんですよ馬鹿!!」
「い、いや、悪い…想像以上にツボに入った…」


必死に笑いを収めようと押さえられているキースの口元は、しかし笑みの形を刻んだままだ。
やはりそう簡単には笑いが収まらないらしい。
その様子が更にシゼルの癇に障り、苛立ちを募らせる要因に繋がっていく。


「いちいち腹の立つ…!いっそのこと、そのまま笑い死にしたらどうですか?!」
「流石にそんな情けない死に方は御免被るな。いや、ホントに悪かった。だからそう怒るな、な?」


ポンポン、と宥めるようにキースから頭を撫でられると、シゼルはツンとそっぽを向いた。
怒りの為か照れた為か、バツが悪そうに頬を赤く染めている。


「…だからそういう子供扱いみたいなことしないで下さいよ。ほんの2歳と少ししか違わないのに、ちょっと僕より背が高いからって兄貴風吹かせないで下さい。僕はキースのそういうところが嫌いです」


シゼルの言い分は、前半はまだしも後半は単なるやっかみでしかない。
密かにコンプレックス丸出しの発言だ。
これにはキースも困ったように笑うしかない。


「妬むな妬むな。これは俺の性分だから、もうどうしようもない。多目に見てくれ」


それに、と言葉を続ける。


「俺はお前の兄代わりだと思ってるし、お前の面倒を見るのは俺だけの特権だろう。そんなつれないこと言わないでくれよ、寂しいだろうが」
「…いけしゃあしゃあとどの口が兄代わりとか言うんですか。そういうことは自分の行い省みてから言って下さい。っていうか人の頭撫でくり回すのやめてもらえませんか?縮んだらどうしてくれるんです」
「この程度で縮むわけがないだろ。おかしなこと言う奴だなぁ」
「無駄に背の高い人に、この悩みは理解できませんよ…」


溜め息を吐きつつ、長身のキースを見やる。
羨ましいくらい背が高い。
軽く二十センチ以上の身長差があるため、少しくらい分けてほしいと常々思うほどだ。

シゼルとて、決して自分の容貌が嫌いなわけではない。
仕事で自分の容姿が役に立つことだって多々ある。
けれど、華奢すぎるこの肢体では当然のことながら大した力も体力もない。
今も昔も非力なままだ。
キースのように…とまではいかずとも、多少なり力があればいいのに。
もっと力があれば自分の大事なものも守れたかもしれないのにと、どうしようもないことを考えている自分がいる。
幼少期もだが、キースと比べること自体が馬鹿馬鹿しい考えだと十分わかっている自分もいる。
あらゆる要因が重なって、奇形と言うべきか歪なコンプレックスを形作っていた。
嫌いでもないのに劣等感を抱くのは、ただの無いものねだりでしかないというのに。


「はぁ…」
「…人の顔見て溜め息吐くのも、大概失礼だと思うぞ」
「羨望の溜め息なんですから、失礼と思う方が失礼なんですよ。光栄に思えばいいじゃないですか」
「無茶苦茶言うなぁ。…ん?シゼル、いつものチョーカーはどうした?」


自身の首元を指し示しながら、シゼルの首筋でいつも光っていたはずのチョーカーの所在を確認してくるキースに、シゼルも肩を竦めてみせる。
本当に他人を良く見ている男だ。


「目敏いですねぇ。あのチョーカーなら、ここに来る前に紐が切れて使い物にならなくなったんですよ。後で紐だけ替えようと思って」


ほら、とポケットから千切れた紐が付いたままのチョーカーを取り出してみせれば、キースもこれは酷いと表情を歪める。


「何というかこれは…いっそ見事だな」
「でしょう?何だってこんなド真ん中で切れるのか…困っちゃいましたよ」
「これもお前のチャームポイントの一つだしな。何か代わりになるような手頃な紐とかなかったのか?」


シゼルの手元を覗き込み、切れた紐の片一方を抓みながらキースはシゼルに問い掛ける。
その問いかけに、シゼルは首を横に振った。
そんなに都合よくスペアの紐なんて持ち歩いているわけがない。


「部屋に戻れば代わりになるようなものもあるかもしれませんけど。でも探すのも面倒なんで、今回の仕事が終わったら新しいの買いに行きます」
「そうだな、それが良い。新しいの買うまでに失くすなよ?」
「失くしませんよ、これは僕のお守りなんですから」


窓から差し込んできた陽の光を反射して、キラリと銀細工のアクセサリーが輝きを放つ。
それをそのまま、再度ポケットに押し込んだ。

ちょうどその時、シゼルとキースの背後からカツカツと足音が響いてきた。
すぐに女性のそれだとわかるその足音に、シゼルの背筋が弾かれたようにシャキッと伸びる。
そんなシゼルの様子に苦笑しながら、キースもまた背筋を正した。
同時に振り向けば、寝起きらしいボスが小さく欠伸をしながら此方に近付いてきていた。


「「おはようございます、ボス」」


二人揃って挨拶をすれば、ボスも眩いばかりの微笑を以て応えてくれる。


「おはよう、二人とも。朝から絵になること」


お気に入りの側近二人が仲睦まじく話していた姿に、朝から目の保養になるわぁ、と機嫌がいい。


「それにしても、貴方達早起きねぇ。こんな時間から、こんな所で話し込んで寒くないの?」


ボスの言葉で外泊がバレていないことを確信し、シゼルはホッと胸をなで下ろした。
咎められる…というか、妬み尽くされる心配がなくなって、張り詰めていた緊張感が解けていく。
必要以上にビクビクすることもなさそうだ。


「昨日仕事の件でシゼルを呼び出していたでしょう?そのことでボスの部屋に行く途中だったんですよ」


な?とキースから話を振られ、シゼルもこくこくと頷く。
ボスはボスでシゼルを呼び出していたことをすっかり忘れていたのか、ああ!と思い出したように声を上げている。


「そういえば、そうだったわね。いいわ、来なさいシゼル。今から説明するわ」


そう言って踵を返すボスを慌てて追いかける。
チラリと後方を見やれば、キースがひらひらと手を振って見送ってくれていた。
どうやら頑張れよ、と言ってくれているらしい。
わかってますよ、と目で返事をしてから前に向き直った。
その間にも、ボスはスタスタと先を歩いている。
ボスが執務室として使っている部屋の扉を開けて中に入ったところで、やっと追い付くことが出来た。

一足遅れて執務室に入れば、ボスは仕事用の革張りチェアーに座り、引き出しを開けて書類を漁っている最中だった。
ばさばさとデスクの上に広げられていく書類の数々に、今回のターゲットも相当な裏がある大物なのかと推測出来る。
そんな風にぼんやり考えていると、乱暴に置かれていく書類の一枚がひらりとシゼルの側に落ちた。


「ボス、書類が…」


落ちましたよ、と拾い上げ、何気なくその書類に目を留めた瞬間、シゼルは自分の目を疑った。
書類に書いてあった文字の羅列。
ちょうど目に入ったのはターゲットの名前だった。
…その名前を知っている。
嫌というほど、文字を反芻するだけで泣きたくなるほど苦痛を伴う、その名前。
忘れたくても忘れられない幼少期の思い出と共に記憶に刻み込まれた、忌まわしい名前。
それは、あの主人の名前だった。