JOKER


猫の泣き声 第4話

「…ボス、今回のターゲットってこの男ですか?」


拾い上げた書類をボスに示し、確認を取る。
シゼルの問いかけに、ボスは一つ頷いて見せた。


「そうよ。…貴方はその人物を良く知ってるはずね」


ボスとてシゼルを拾った手前、拾う以前のシゼルの生活がどのようなものだったかは概ね話を聞いている。
それに加え、殺しの依頼をしてきたクライアントからの情報に、組織の情報収集班が詳細に調べ上げてくれた情報とが合わさって、今回のターゲットがシゼルにとってどれだけ影響を与える人間であるかも良くわかっていた。
だからこそ、シゼルにこの仕事を割り振った。
自らの手で過去のしがらみを断ち切れるように。


「まぁ、今回に限っては無理に引き受けろとは言わないわ。やるかやらないか、自分で決めなさい」


そういうボスの声は、素っ気ないように見えて存外に優しく耳に響く。
シゼルは一つ頭を振って、余計な感傷を全て払いのけた。
自分でも、これが過去のしがらみを断ち切る最初で最後の機会だとわかっている。
引き受けない理由などない。


「…やります。やらせて下さい」
「そう。大丈夫なのね?」


ボスからの問い掛けに、頷いて肯定する。
自分が手を下さなくては、後々必ず後悔するだろう。
幼い頃の自分にとって、この男は絶対的な支配者だった。
ボスとは違う、一切の愛情もなく、ただ自分の欲の捌け口として身寄りのない幼い子供を側に置いて、自分を含めた多くの子供達に癒えない傷を残した。
忘れたくても忘れられない、幼い頃の悪夢のような辛い日々。
懐かしさなど微塵もない。
悔恨や憎悪といった負の感情だけが心を蝕んでいく。
この手で今回の仕事を終わらせれば、そんな感情も消えていくはずだが、恐怖の象徴だった過去の主人を前にした時、過去に捕らわれ足が竦んでしまわないか、それだけが不安で仕方がない。
ぎゅっと、きつく握りしめた掌はいつの間にか汗ばんでいた。


「…シゼル。子供はね、成長するものなのよ。けれど大人は老いていくだけ。覚えておくと良いわ」
「え…?」


脈絡もなく投げ掛けられたボスの言葉に、シゼルは驚いて顔を上げる。
言われた言葉を反芻してみても、よく意味がわからない。
子供は成長するもの、大人は老いていくだけのもの。
摂理としては当然のことだろうが、ボスが何を言いたいのかがさっぱり掴めない。
何かの謎かけかと小首を傾げながら考えてみたが、やはり答えはわからなかった。


「さ、仕事の説明をするわ。座りなさい」


どういうことかと問いかける前に話題を変えられてしまい、どうすることも出来ずに傍のソファーに腰を下ろした。
新しく受け取った書類と、先程拾い上げた書類を合わせて手元に広げる。


「ターゲットの名前はサタナキア・グロリアス。表向きは身寄りのない子供達を引き取って養うほどの慈善事業家。けれど裏では、引き取った子供をそっちの趣味がある人間に売り飛ばしていたっていう人身売買のブローカー」


絵に描いたような小悪党ね、と評するボスの表情にも侮蔑の色が浮かんでいる。
シゼル自身、あの主人が人身売買のブローカーをやっていたということは今の今まで知らなかった。
屋敷の中に、まるで鳥籠の小鳥のように閉じ込められていた身としては知りようのなかった事実だ。


「…どうやら、お気に入りの子は自分の相手をさせるために手元に置いていたようね」


何気なく、書類に目を走らせながら呟かれたボスの言葉に、シゼルの身体がびくりとしなる。
気に入られていたから、側に置かれた。
気に入られていたから、あんなに辛い仕打ちを受けた。
そのことに気付かされ、あまりの屈辱に食いしばった奥歯がぎりりと音を立てた。


「けれど、ブローカーからはもう足を洗ったみたいね。今は残ったお気に入りの子と自分の屋敷に籠もって、ブローカー時代に稼いだ大金片手に楽隠居。結構なご身分だこと」
「…その、お気に入りの子というのは何人くらいいるんですか?」
「一人よ」
「一人?たったの…ですか?」


あんなに多くの子供達を傍に侍らせていた男が、今ではたった一人の子供に執着しているというのか。
俄には信じられない話だ。


「そうよ、たったの一人。きちんと此方で調べた情報だから間違いないわ。今はその子だけにご執心のようね」
「何故…」
「それは本人に聞かないことにはわからないわ。それだけ群を抜いて可愛い子なのか、何なのか。どちらにしても、その子にとっては可哀想なことに変わりはないわね」
「…ボス、この仕事を終わらせたとして、その子はどうするんですか?保護して…」
「いいえ、殺しなさい。保護する必要はないわ」


一切の抑揚もなく放たれたボスの言葉に、ただただ愕然とする。


「で、でも…」
「これはクライアントからの依頼でもあるの。ターゲットの屋敷にいる人間は例え使用人であっても皆殺しにしてほしいそうよ」
「皆殺しって、どうしてそこまでする必要があるんですか?」
「…クライアントもねぇ、ちょっと難がある人なのよ」
「と、言いますと…?」
「この件のクライアントはね、元々貴方と同じ立場の人間なのよ。このサタナキアという男から飼われていた子供の一人」


ボスの説明によれば、クライアントはシゼル同様サタナキアのお気に入りとして側に置かれ、辛い仕打ちを受けていた過去を持つ女性ということだった。
成長し、幼児性愛者であるサタナキアの好みを外れてからは、一般の施設に押し込まれ、そして運良く人の良い老夫婦の元に引き取られたのだという。
それからはまさに絵に描いたような幸せな日々で、けれど、サタナキアの元で過ごした消しようもない生活が脳裏に焼き付き、幸せであればあるほど過去と現在に板挟みにされて、兎に角苦しかったのだと。
更に恋人も出来、幸せの絶頂も味わった。
しかし、それは同時に苦痛の絶頂でもあった。
自分は穢れている。
嫌でもそういう考えに至り、恋人を受け入れることも出来なかった。
恋人にも、過去を話すことなど出来ようはずがなかった。
過去という鎖に縛り付けられ、出口のない苦しみに頭がおかしくなりそうだった。
そして、気付けば亡くなった養父母の遺産を手に、苦痛の元凶である男の殺しを殺し屋に依頼していた。
…というのが、依頼までの一連の流れだそうだ。
加えて、その憎しみの感情はサタナキア本人のみではなく、子供達が暴行を受けていると知っていて救いもしなかった屋敷の使用人にも向けられているのだ、と。
それがたとえ昔勤めていた使用人でなくとも、あの屋敷にいる者なら関係なく、全てが殺しの対象ということだった。


「でも、だからって何故子供まで殺す必要があるんですか?納得出来ません」
「…自分と同じ苦しみを味わうくらいなら、まだ何も知らない、わからないでいる子供のうちに死ねた方が幸せだから」


だそうよ、とクライアントの言葉を語るボスに、シゼルも二の句が継げない。
クライアントのエゴでしかないような理屈なのに、同じ経験をした身からすればクライアントの言うことは単なるエゴではないと良くわかる。
シゼル自身、今現在も苦しんでいることなのだから。
女性にとってあの過去はどれだけの傷を残すことになるのか計り知れない。
幸せになることが苦痛に繋がるとなれば、もう何に希望を見出せばいいのかわからなくなって当然だ。
そうなれば、自分が生きていることに絶望するしかない。
そんな状態に陥れば、恐らくもう誰もその子を救うことは出来ないだろう。
クライアントと同じように。

そこまで考えが至った時、シゼルはファルファのことにも思い至った。
ファルファはシゼルとクライアント同様ターゲットのお気に入りとして扱われてきた。
その上、シゼルと共に屋敷を逃げ出した。
シゼルを庇って捕まった後に受けた仕打ちが、一際酷いものになっただろうことは容易に想像出来た。
それがファルファにどれだけ深い傷痕を残しただろう…。
幸せに暮らしているだろうかとファルファのことを想っていたのに、その想いはファルファの不幸を願うことと同義だった。
今更気付くことになるなんて。
泣きそうに表情を歪めたシゼルを見て、堪らずボスが口を開く。


「…仕方ないわね。シゼル、じゃあこうしましょうか。サタナキアの屋敷にいる子が女の子なら、クライアントの依頼通り殺してあげなさい。でも、男の子だったら保護すること。例外はあれど、こういう事情だと男の子の方が立ち直れる確率は高そうだものね。だから、男の子だった場合のみ貴方と同じように殺し屋として育てるわ。勿論クライアントには秘密でね」


それで文句はないでしょう?とボスから提案され、シゼルは面食らったような表情を以てボスに応える。
ファルファのことを考えて表情を歪めていたのに、サタナキアの屋敷にいる子供を殺すか殺さないかで苦悩しているのだと勘違いされてしまったらしい。
けれど、サタナキア本人は勿論、見て見ぬ振りの使用人達とは違い、何の罪もない子供を手に掛けるのに気が引けるのは事実だ。
それが過去の自分と同じ立場にある子供なら尚更のこと。
いくら同じ身の上だからとは言え、殺してくれと簡単に口だけ出すクライアントとは違い、実際に手を下さなければならないのは此方なのだから、正直なところボスからの提案は有り難かった。
たとえ、それが二分の1の確率であったとしても。


「有難うございます、ボス」
「特別サービスなんだから感謝なさい。この条件なら、やれるわね?」
「はい」
「期待してるわよ、シゼル。しっかりね」


珍しいほどのボスからの激励に、シゼルは笑顔でもって答えた。
同時に、大丈夫だと、しっかりやれると自分に言い聞かせる。


「他に質問はある?」
「あ、ボス、一つだけ…。クライアントの名前と外見の特徴を教えてもらえませんか?」
「名前と特徴?ええと、名前は確か…リリン・カートライトだったかしら。外見は、そうね…黒髪に、焦げ茶の瞳のエキゾチックな美女だったわね。それがどうかしたの?」
「いえ、それを聞いて安心しました。有難うございます」


名前も外見的特徴も、ファルファとは異なる。
ファルファは美しいブロンドの髪と、まるでエメラルドのような透き通った碧の瞳を持つ西洋系の美少女だった。
少なくともクライアントの外見には当てはまらない。
ファルファではないとわかって、ホッとした。
やはりどうしても、ファルファがどこかで元気に暮らしているという希望を捨てることが出来ない。
願わずにはいられない。
しかし、一先ずはこれで目に見える心配事はなくなった。
同じ境遇にあった、このリリンというクライアントのためにも。
何より自分と、そして今の自分の生活をくれたファルファのためにも、今回の仕事は必ずこの手でやり遂げなくてはいけない。

シゼルは一つ息を吐くと、ぱちんと自分の頬を叩いて表情を引き締めた。
私的な感情を頭の隅に追いやり、仕事なのだと考え方を切り替える。
そんなシゼルの様子を見たボスも安心したように、そして満足そうに微笑んだ。


「決行は明日よ。今日は明日に備えて道具の手入れをするなり、書類の内容を頭に叩き込むなり好きに過ごしなさい。体をゆっくり休めて、気持ちも落ち着けて仕事に臨むように」


仕事に臨む前の初歩的なことまで言い聞かされ、今の自分はそんなに危なっかしく見えているのかと、シゼルは困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
相変わらず高圧的だが、心配してくれているらしいボスの気持ちが言葉の端々から伝わってきて、少し嬉しい。
シゼルは手にした書類を纏めて、ボスの執務室から辞するべく立ち上がった。


「それでは、ボス。これで失礼します」
「ええ。あ、シゼル、ついでにキースを呼んできて頂戴。あの子にも話があるから」
「キースですか?わかりました」
「それと、今日の朝食はメイプルシロップを垂らしたパンケーキに、ヨーグルトをかけたフルーツサラダが食べたいわぁ。紅茶はダージリンでよろしくね」


退室の際にしれっと朝食のリクエストをされ、シゼルは「わかりました」と苦笑混じりに返事をしてから、ボスの執務室を後にした。