JOKER


猫の泣き声 第6話

シゼルは、とある屋敷の門前に佇んでいた。
今回の仕事場であるターゲットの屋敷だ。
門の外から仰ぎ見る屋敷は、幼い頃に過ごしていた屋敷と寸分違わぬ姿でそこにあった。
否、セピア色に染まる記憶の中の屋敷に比べ、今目の前に聳え立つ屋敷の方が幾分か小さいだろうか。
過去、威圧感を放っているように見えたこの屋敷が、威圧感どころか小さく見えるというのもおかしな気分だった。
それでも嫌な思い出が大半を占めるこの場に赴いたことで、心臓は痛いくらいに早鐘を鳴らし、意志に反して震える足は一歩を踏み出すことすら躊躇う始末。
自分の身体なのに、自分の思い通りに動いてくれないことが歯がゆくて仕方がない。

シゼルは一つ溜め息を吐くと、自分を落ち着けるため、そして屋敷内に侵入しやすい場所を探すため、周辺を散策することにした。
いつまでも門前に突っ立っているのも目立つ上、堂々と真正面から侵入するわけにもいかない。
踵を返し、敷地を囲う塀に沿って歩を進めた。
煉瓦作りの塀のため、赤茶一色の壁が果てなく続く。
どの位置だったか、この煉瓦の壁をよじ登って外に逃げ出したのだ。
今の自分でさえ届かないほど背が高い壁を、良くもまあ当時の自分は越えられたものだ。
勿論一緒に逃亡を企てたファルファの協力あってのことではあったが。
歩きながら赤茶けた壁に触れ、シゼルは懐かしさと切なさを織り交ぜたように目を細めた。


「…さぁ、早く終わらせて帰らないと。またキースから説教されちゃう」


昨日弱音を吐いて、キースを怒らせてしまったことを思い出し、思わず苦笑が漏れた。
パチンと自分の頬を叩いて気合いを入れ、余計なことは吹き飛ばす。
幾分か震えが落ち着いた足にも、迷いを打ち消すように叱咤する。
壁の高さは、当時より成長した今の自分よりも尚高い。
だが、体力も力もまったくなかった幼少期とは違う。
確かに現在であっても体力と力があるとは言い難いが、殺し屋という組織に属することでそれなりに鍛えられてきた。
個性を伸ばすことに特化した鍛えられ方は、元々優れていたのだろうシゼルの俊敏さや、しなやかさを伸ばしてくれる結果になった。
勿論男性に比べれば、比べるべくもなく劣るが、自分の身体を支える程度の力なら普通にある。

シゼルは周囲にちらりと視線を走らせ、誰もいないことを確認すると塀の上に手をかけた。
グッと両手に力を込めると、シゼルは軽やかに跳躍した。
猫のようなしなやかさで跳び上がり、塀を乗り越えて、ふわりと敷地内に着地する。
昔でこそ何匹も番犬が放たれていた庭だが、今は一匹も飼われていないということは、キース直轄の情報収集班が調べてくれたことなので知っている。

数ヶ月前のアンジェの件で組織全体を通しての大失態を犯してしまったため、幹部であるキースが筆頭となって纏め上げる情報収集だけを目的とした部署が設立された。
情報収集班自体は元々あったのだが、大幅に人事異動され、内容も深く込み入ったものになった為、新設されたといっても過言ではないものになってしまっている。
しかも手抜きを許さないキースのスパルタに、部下達は日々悲鳴を上げているという。
そういった経緯から、今の組織からの情報はとても信頼出来た。
キースの監視下にある情報ならば間違いはない。

実際辺りを窺っても犬が駆け寄ってくる気配はなかった。
それでも注意深く辺りを警戒しながら屋敷に近づいていく。
柔らかな白を基調とした屋敷の造りからは、屋敷の中でどれほど陰惨なことが行われているかなど誰も想像がつかないだろう。
春になれば美しい花々が咲き乱れるだろう整えられた庭に、暖かな色調の建物。
まるで子供達が元気にはしゃぐ声が聞こえてきそうなほど、温かい家庭というものに似合った家だ。
何も知らない者は、誰だってそう思っても仕方がないような外観をしていた。

けれど実際は違う。

後ろめたいことがあるからこそ、鉄柵ではなく塀で敷地を囲み、外界からの視線を完全に遮断している。
この屋敷にこの塀はどう考えてもアンバランスだと誰もが思うほど奇妙な取り合わせをしているのは、知られてはまずい子供達の存在があったからだ。
当時はそんなことなどわからなかったが、今ならわかる。
敷地を囲むのが塀ではなく鉄柵であったなら、柵の合間から覗く外の世界に希望を持つことも出来るだろう。
しかし、隙間すらない一面の壁に、募るのは外界に対しての希望ではなく絶望ばかり。
格子に囲まれてはいるが、空に夢を持っていられる鳥籠の小鳥の方が幾分かマシだとすら思える環境だ。
そんな場所で今も苦しんでいる子供がいる。
正義を語るつもりは更々ないが、出来るならば助け出してやりたいと思った。
少女ならば殺せと言われている立場上、少年であってほしいと思わずにはいられない。

シゼルは裏口の戸まで辿り着くと、ドア越しに人気がないことを確かめてから耳元の髪を留めていたヘアピンを抜き取った。
それを指先の力で出来るだけ真っ直ぐに伸ばし、そのまま鍵穴に突っ込む。
馴れた手付きでヘアピンを弄っているかと思えば、すぐさま錠の廻る音がカチリと小さく響いた。
あっさりと侵入経路を確保出来たことに、ふとキースから言われた言葉を思い出す。
いつだったか、こういったことの手際の良さに、殺し屋より泥棒の方が向いているんじゃないかと言われたことがある。
その時はムキになって言い返したが、実際こういう場で思い返してみると、確かに泥棒でもいけるかもしれないと僅かだが思ってしまう。
そして、ふと我に返って頭を振る。
そんなわけはない、しっかり殺し屋として仕事を全うし、キースの前でどうだと胸を張ってやろう。
思いも新たに、ドアノブを捻って室内に足を踏み入れる。
しんと静まり返る室内は不気味な程で、嫌でも緊張感が増した。

裏口から続いた部屋を出て、階段を駆け上がり、昔の主人を探すべく廊下を進む。
小さく軋んで音を立てる足元の板に苦い顔をしながら、歩を進めていく。
廊下にずらりと居並ぶドアの数は、あの頃と一つの変わりもないようだった。
色褪せていた記憶が一気に色づき、細部に至るまでが、連鎖反応のように次々と記憶の海から引き上げられていく。
この屋敷から出て二十年近くも過ぎているのに、一番近く部屋はどういった部屋だったか、その先の部屋は何の部屋だったか、すべて思い出せる。
記憶を辿るように、シゼルは行く手に並ぶドアの一つ一つに視線を走らせた。

幼い頃、あの部屋では怯えながら、それでも生きるために食事を摂った。
あの部屋では、子供達すべてで集まり、互いで互いを守るように一塊になって眠った。
あの部屋では、他の子供達が震えて身を寄せ合っていた。
あの部屋では、毎日毎晩子供達の悲鳴が木霊していた…。
あの部屋では…。

突き当たりにある一つの扉に気を留めた時、シゼルは考えるより先に駆け出していた。
長い長い廊下を駆け抜けている間に脳裏をかすめたのは、幼い時分にその身に受けた苦痛と屈辱。
そしてサタナキアの所在を告げる記憶と、それを裏付けるキースからの情報の一端だった。
それらが、警鐘となってシゼルの身の内で鳴り響く。
当時、あの突き当たりの部屋はサタナキアが一番気に入っている部屋だった。
普段からその部屋は他の部屋に比べてリラックス出来るということを理由に、サタナキアの書斎兼私室として常に使用されていた。
あの部屋の隣は寝室で、室内にもドアがあり、直接サタナキアの私室と寝室を往き来できるようになっていた。
寝室からも、更に隣の部屋へ直接往き来できるようになっている。
その部屋で子供達は仲間の悲鳴や泣き声を聞いては、恐れおののいた。
寝室に続くドアの開く音が隣室から響けば、まさにそれが合図だった。
それはサタナキアが子供達のうち誰かを寝室に引き入れる合図。

あの突き当たりの部屋は地獄の入り口。

悪魔の住処。

そこから寝室へ続く扉は地獄の蓋。

地獄の蓋が開く度に、天使のように無垢で可憐だった子供達は醜悪な悪魔によって蹂躙された。
そして地獄の蓋の先、悪魔の住処には、未だ悪魔が棲んでいる。
あの醜い悪魔は、今も当時のまま、その部屋を愛用しているらしい。
あの悪魔が、二十年近い年月を経た今でも性癖も趣味も何一つ変わっていない糞爺だと思うと、何故だか不思議と笑えてしまった。
刻々と時は流れているというのに、何一つ変えず、変わらず、変えようともせずに過去に固執しているサタナキアがとても馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。


「――…ああ、ボスが言ってたのはこういうことか」


昨日、この仕事について説明を受ける際にボスから掛けられた言葉を思い出す。

『子供は成長するもの、大人は老いていくだけのもの』

自分が成長出来ているのかは何ともいえないが、サタナキアという男の性質が当時と変わらず、それでいて、ただただ年老いていっただけということは間違いない。
老いて萎んで小さくなっていく大人とは逆に、子供は大きく育ち、いつしか大人だったものを追い越して自らが大人になっていく。
子供心に恐ろしかった大人に対してさえ、自分が大人になった時には当時の恐怖をも覆せる強さを、無自覚のうちに持ち合わせているものだ。
ボスは遠回しに、否、違う角度から見れば直接的に励ましてくれていたのかと、今になって漸く理解出来た。
とてもわかりにくい励ましに、けれど励ましだとわかった途端とても心が温かくなった。

養母の不器用な愛情表現と優しさに、かつての主人たるサタナキアがどれだけ最低最悪な人間だったのかと改めて非難の気持ちが募る。
筋金入りの変態め、と変わらずにいるらしいかつての主人を思い出して吐き捨てるように呟けば、身の内で煩いほどに鳴り響いていた警鐘も同時に鳴り止んだ。
危険から自分の身を守るために本能が告げていた警告が止んだということは、危険分子が離れたということなのか手遅れということなのか。
…それとも、ここにきて不安を感じていたこと全てを克服出来たということなのか。

心臓の鼓動は相変わらず早い上に、ドクドクと不快になるほど大きな音で脈打っている。
しかし、悪魔の住処たる部屋に辿り着き、ドアノブを捻ったシゼルの表情には薄っすらと笑みさえ浮かんでいた。