JOKER


猫の泣き声 第7話

ガチャリと無遠慮にドアを開く。
目的の人物を捜すために前方を見やった途端、ただでさえ早鐘を鳴らしていた心臓が、どくんと嫌な具合に大きく跳ねた。
高価そうな革張りの椅子に腰掛けて、此方に背を向けるその後ろ姿には嫌と言うほど見覚えがあった。
しかし、やはりその姿もこの屋敷の外観と同じで、心なしか昔より小さく萎れて見える。
シゼルは小さく息を吐き、自分の鼓動を宥めてから室内に一歩踏み出した。
不思議と平静を保てている自分に自分自身が驚いた。
サタナキアが、昔自分を凌辱した男が目の前にいるというのに、今や怒りや憎しみといった感情よりも、年老いてなお自分の欲望のままに生き囚われる萎びた老爺を見下す気持ちの方が大きくなっている。

歩みを止め、一つゆっくりと瞬いてから乱暴にドアを閉めた。
バタンという音が大きく響いたことで、やっと室内に誰かが入ってきたと気付いたのか、サタナキアの背中がかすかに揺れた。


「…勝手に入ってくるなと言ってあるだろう。いつまで経っても聞き分けのない…」


苛立ちを含んだ声も昔と変わらず醜くしゃがれ、聞いている側が不快になるようなネットリと粘ついた印象を受ける。
しかし、後ろ姿同様以前ほどの威圧感もなく覇気もない。
だからなのか何なのか、この部屋に入り、サタナキアの姿を捉えても、緊張感はあれども何故だか恐怖といった感情が一切沸き上がってこない。
そのことに内心戸惑うほどだった。
胸の内を占めるのは、怒りと憎しみと、それらを遥かに上回る憐れみの気持ち。
無様に老いたかつての主人を前に、恐れは微塵も感じない。
昨日まで不安で、恐くて仕方がなかったというのに、あれほどまでに怯えていた自分が馬鹿馬鹿しい。
昨夜キースの前で泣き言を漏らした自分が心の底から情けないと思えてくるほどだった。

シゼルは、家の者が勝手に入室したのだと勘違いしている様子のサタナキアに答えるでもなく、無言でワイヤーを取り出す。
返事がないことを不審に思ったサタナキアが振り向いたのは同時だった。
サタナキアの醜悪な顔が突然の侵入者を見て驚きに歪む。


「だ、誰だ、貴様は!誰の許しを得てここに入った!!」


言葉だけは偉そうだが、サタナキアの焦り慌てる様にシゼルは皮肉っぽく笑って応えてやる。


「僕が誰だかわかりませんか?昔はあんなに可愛がってくれたのに。薄情な男ですね」


嫌味で応えてやるものの、サタナキアは狼狽えたまま相変わらずシゼルの正体に気付けないでいるようだった。
シゼルは大袈裟に溜め息を吐いて見せ、冷めた目で椅子に腰掛けたままの年老いた悪魔を見下ろした。


「無様ですね、この耄碌クソジジイ。体と一緒に頭の中まで萎れましたか」
「な、何?!」
「仕方ないのでヒントをあげます。十八年前、あなたの大切なコレクションだった子供が一人、この屋敷から逃げ出しました。その子供の名前はなんといったでしょうね?」
「…!!な、お、お前は…」


クイズの答えがわかり愕然とするサタナキアに、シゼルはにこりと微笑んで見せた。
憎い相手の慌てふためく様は眺めていてとても胸がすく。


「答えはイシェリア。僕はあの時のイシェリアですよ。お久しぶりですね、ゴシュジンサマ」


蔑んだ笑みを浮かべ、皮肉たっぷりの自己紹介をしてやる。
幼い頃に逃げ出した子供が今成長した姿で目の前に立っているということの意味に薄々勘付いたのか、サタナキアはガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
その顔色は蒼白で、逃げるように後退りを始める。
それでもやはり確かめずにはいられなかったのか、サタナキアはそのしわしわの唇を開き、しゃがれ声を絞り出した。


「一度逃げ出した者が、今更何をしに来た…!」


虚勢に満ちたサタナキアの物言いに、命乞いをしない点にだけは感心出来た。
てっきりプライドなんてかなぐり捨てて、媚びへつらって命乞いをしてくる類の人間だろうと思っていたから一層意外だった。
しかし、そんな気持ちも次の一瞬で掻き消えることになる。
サタナキアは、本人にとっては最大限の強がりなのだろう笑みを浮かべ、シゼルの神経を逆撫でするように言い放った。


「それとも、成長してからも儂のことが忘れられなかったのか?ん?」


ニタニタした笑みと同時に投げ掛けられた、下卑た言葉。
恐怖の為かいびつに歪んだ笑顔だったが、シゼルの怒りを煽るには充分だった。


「また此処に置いてやってもいいんだぞ?昔ほどの愛らしさはないが、今は今で美しくなった。儂の好みからはちと外れるが、また可愛がって…うぐっ!」


カッと頭に血が上り、理性が働くより先に身体が動く。
ぺらぺらと良く回るその舌ごと口を塞いでやろうと、口、ひいては頭部を重点にワイヤーを繰り出した。
全身を拘束するようにワイヤーで縛り上げられ、バランスを崩した老爺は不格好な姿のまま床に倒れ込んだ。
よろけた弾みでぶつかったテーブルから、倒れたサタナキアの側にフルーツや皿、ナイフやフォークといった揃いの食器がけたたましい音を立てて雪崩れ落ちる。
激しく床に体を打ち付けた衝撃で、サタナキアのしわくちゃの皮膚の至る所にワイヤーが食い込み、血が滲み出した。
苦しげに呻いて転がるかつての主人を見下ろして、シゼルは自身を落ち着けるべく大きく息を吐く。
掻き乱されるな、と自分に強く言い聞かせた。


「…生憎と、しわしわなジジイに相手してもらわないといけないほど惨めな生活送ってないんですよ。そりゃあね、あなたのこと忘れられなかったのも事実ですけど」


今までも、そしてこれからも、恐らく死ぬまで忘れられない男であることに間違いはないけれど。


「今の僕には、ちゃんと帰る場所も帰りを待っていてくれる人だっているんです。帰りたいと思える場所があるんです。昔の、何も出来ずに震えていただけの子供と一緒にするな!」


指先でワイヤーを繰り、ギリギリと締め上げていく。
幾重にも口周りに張り巡らされた細い糸は、口角に沿って口を裂くようにサタナキアの肉に食い込んでいく。
出血と肉を引き裂かれる痛みに加え、口を塞ぐように巻き付けられたワイヤーの所為で、強がりによる軽口も絶叫すらも上げられなくなったサタナキアは、ただただ床の上でもがき苦しむ。
言葉にならない悲鳴を上げて身悶える様は、どこか滑稽だった。


「僕はね、逃げ出した日から今日まで殺し屋の組織で育てられたんですよ。そして、あなたを殺して欲しいと依頼してきたのも、あなたのかつてのコレクションだった一人。神様がいるとしたら粋な計らいしますよね。無体を強いた相手をこの手で殺す機会を与えてくれるなんて、皮肉で素敵な話です」


饒舌に語るシゼルを前に、サタナキアには反論することも出来ない。
一向に体を締め付けるワイヤーの力は弱まらず、体中の皮膚が裂け、全身の骨がギシギシと嫌な音を立てている。


「…あなたも、自分のコレクションだった子供に殺されるなら本望でしょう?あんな思いさせておいて、自分だけのうのうと暮らしていけるなんて最初から思ってなかったでしょうに。ねぇ?」


ギリッと更に力を加えて強く引くと、縛られた老爺の口からは益々苦しげな呻き声が発せられた。
ワイヤーで切れた箇所から血が滴り、ゆっくりと床に血の染みが広がっていく。


「じゃあせめて、死に方くらいは選ばせてあげましょう。このワイヤーで首を絞められて死ぬか、すっぱり首を切り落とされて死ぬか、首の骨をへし折られて死ぬか」


どれが良いですか?と、笑って問い掛ければ、悪魔であったはずの男は顔を涙でぐしょぐしょに濡らしながら懸命に首を横に振った。
その姿が無性に癇に障り、シゼルはサタナキアに近付いた。
側に寄ると、一切の遠慮もなく、その芋虫のように小さく縮こまった体を足蹴にして踏み付けた。


「うぐぅっ!!」
「往生際が悪いですよ。人が折角死に方を選ばせてあげようって言うのに。さぁ、さっさと決めて下さい。あと五秒」


無情にもカウントダウンを始めてしまうシゼルを前に、口を塞がれている今の状況では選択肢から死に方を選ぶどころか制止を求めることすら出来ない。
目で訴えるように必死に何事か呻いているサタナキアに、シゼルは抑揚のない声でカウントを続ける。


「四」


くぐもった声で喚くように声を発しながら、どうにか逃れようと足掻くサタナキアの姿は、もはや哀れみを誘うものでしかなくなっていた。
年老い、老いぼれた姿になってまで生に執着するのかと、見下ろすシゼルの瞳が冷たく冴える。
幾人もの、本来なら幸せな普通の人生を送れたはずの子供達から真っ当な人生を奪っておいて、自分はまだ生きようとするのか。
その姿はあまりに浅ましく目に映った。


「三、二」


サタナキアを踏み付ける足に力がこもる。
体重をかけるように背中を踏みしめ、背骨を踏み砕いてやろうかという勢いで片足に力を込める。
身動きすら封じられる形になったサタナキアは、ただただ喧しく呻き声を上げることしか出来なかった。


「…一」


ぽつりと呟くように、シゼルの口から最後のカウントが零れた。
瞬間、シゼルによって渾身の力でワイヤーが引かれ、サタナキアのくぐもった悲鳴が室内に木霊した。
めきめきと骨が軋む音と同時に肉が裂けていく音が生々しく響く。
半拍遅れて、シゼルの足元から血の飛沫が上がった。
ぶしゅっという音と共に、シゼルの服や頬にも血が飛び散ってくる。
ごろりと床に転がった、悪夢の権化だった男の頭部を更に踏みつけて、シゼルは小さく笑った。


「ああ。そういえば、口を塞いでたから喋れなかったんですっけね。でも貴方にお似合いの死に様じゃあないですか。醜くて汚くて、お誂え向きだと思いますよ。そんな最期を与えてあげた僕に感謝して下さいね。…って、もう聞こえてないでしょうけど」


ガンと首を蹴り飛ばす。
ごろごろ転がった首が壁にぶつかって止まるまでの一連の様を見つめ、小さく息を吐いてから、シゼルは部屋を出るべく踵を返した。
ノブに手をかけ、捻りかけて一旦手を止める。
振り向いて、首と胴が分断されて首だけになったかつての主人を見やった。


「…さようなら、ゴシュジンサマ」


ワイヤー痕で傷だらけになった首は、虚ろな眸を向けてくる。
その首に向けて、ぽつりと別れの言葉を呟いた。
これで本当に、過去からの決別を含めて最後なのだと。
逃げ出してから今日までずっと、記憶の中でも自分を苦しめ続けてきた悪鬼の成れの果てを一瞥してから、静かにドアノブを捻る。
そのまま、シゼルは振り返ることなく血の色一色に染まったその部屋を後にした。