JOKER


猫の泣き声 第8話

「…はぁ」


サタナキアの部屋を後にし、部屋の扉を閉めた途端、シゼルはその場にしゃがみ込んだ。
張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、身体中から力が抜ける。
終わったのだと思うと心の底からホッとした。
まだ屋敷内を一回りしてサタナキアから囲われていたという子供を探さなくてはいけないが、兎に角一番の山場は越えたと言って良い。


「…大丈夫、僕は僕だ」


狂ってなんかいないと安堵の息を吐きながら、シゼルはゆっくり立ち上がる。
何気なく自分の身体に視線を落としてみると、返り血で散々なことになっていた。
初めてその事に気付き、嫌そうに顔を顰めたシゼルは、取れるはずがないとわかっていても服に付いた血の染みをごしごしと擦った。
当然少しも取れるはずはなく、染みが広がって余計に服を汚す結果になってしまう。


「ザマァないなぁ」


いつもであれば、こうも不様に返り血を浴びるなんてことはなかったのに。
感情的になりすぎて、とてもスマートとは言えない出来だ。
殺し方も汚くて、普段の自分にあるまじき粗暴さだった。


「これじゃあキラに野蛮だとか言えないな…」


小さく溜め息を吐きながら、緩やかに歩を進めていく。
少年であってくれと思いながら、残された子供を探すべく手近にあるドアを片っ端から開けて室内を改めた。
しかし、どの部屋でも誰の姿も見付けることが出来ず、諦めて階下に足をのばす。
ゆっくりと階段を降りていくと、足元からカタンと小さな音が響いてきた。
この下には、確か物置小屋同然の小さな部屋があったはずだ。
かつて、ファルファと共に逃げ込んでは、二人身を寄せあった場所。
脱走を企て、あの銀細工のチョーカーを贈られた場所でもある。
懐かしい場所を目にして感傷に浸る間もなく、先程の物音の正体に緊張が走った。
使用人の誰かがいるのだろうかと、すぐにワイヤーを繰り出せるよう細心の注意を払いながらドアノブに手をやる。
そっとノブを捻り、ドアを開け放った。
そこで目に入ったのは、こちらに背を向けて座り込んでいる少女の後ろ姿だった。
美しいブロンドの髪が、差し込んでくる陽射しの光を受けてキラキラと輝いている。
ここにいるということは、この少女がサタナキアに囲われていた子供ということなのだろう。

――…結局、男の子ではなく女の子だった。

救ってやることが出来ないとわかり、思わず溜め息が漏れる。
そこで初めてシゼルの存在に気付いたのか、少女が俯いていた顔を上げ、振り返った。
真っ直ぐに侵入者を捉えるエメラルドの瞳に、そして少女の首から下げられている銀細工のチョーカーを見て、シゼルは驚いて瞠目する。
有り得ない、そう思ってはいても、唇から零れ落ちる呟きを止めることは出来なかった。


「…ファルファ…」


――目の前の少女は、十八年前に生き別れた少女と何一つ変わらない姿をしていた。




「ボス、シゼルのことなんですが、どうやら少しまずいことになりそうです」
「あら、何かあったの?」


珍しく険しい表情でシゼルの話を持ってきたキースに、ボスも何事かと表情を曇らせる。
シゼルには秘密だったのだが、実はボスからの命令でキースはサタナキアに囲われているという子供について調べていた。
男の子であれば問題ないが、女の子であれば殺せというボスからの命令がシゼルに下っている以上、その子が女の子であった場合は何の罪もないのに死ななくてはいけないということになる。
サタナキアから蹂躙され、挙げ句に殺し屋から殺されてしまう運命にあるとは、その人生はとても短く哀れであるものに違いない。
非業の死を遂げることになるなら、せめてしっかり弔ってやろうと子供の性別や身元等調べられることはなんでも調べた。
そして、昨日の今日という短時間ではシゼルが仕事に出掛けるまでには間に合わなかったが、たった今しがたサタナキアの屋敷にいる子供についての詳細がわかったところだった。


「結論から言うと、今回のターゲットに囲われている子供というのは女の子でした」
「そう…あの子も辛いでしょうね。それで、一体何がまずいの?」
「実はその女の子というのが問題でして。その子の名前はファルファ。十八年前にシゼルと一緒にターゲットの屋敷から逃亡を計り、シゼルを庇ってターゲットのもとに連れ戻されたとされる少女です」
「…どういうこと?つまり、その子はシゼルと同年代になるのよね。子供どころか一端の女性じゃない」
「年齢からいえば俺より一つ上になるようですね。ただ、外見が実年齢に伴っていない為に、報告に上がっていたものにも『子供』と表記されていたようです。ボスの命令がなければ俺だって気にせず片付けていたでしょうね」
「外見が実年齢に伴ってないって、シゼル並みに童顔ってことなのかしら…」
「あいつの童顔も相当なものですけど、このファルファという子の場合は童顔というより、むしろ成長が止まっていると言うべきかもしれません。なにしろ九歳当時の姿から現在まで、顔も体格も何一つ変わっていないという話です」


キースの説明を聞くにつれ、ボスの表情が益々困惑したものになる。
十八年間、何一つ変わらずにいるということが現実に有り得るのだろうか。
否、ボスやルノ、そしてシゼルも数年前からするとほぼ外見に変化はない。
しかしそれは殺し屋の組織に属する以上、摂取しなければならなかった様々な毒から為る特異体質であったり、遺伝的なものであったり、現代の最先端美容技術の賜物だったりと要因は異なるが、決して成長や老化といったものが止まっているわけではない。
しかも、成長期真っ只中であるはずの幼い子供の成長が止まるとは俄には信じられないことだった。


「そんなこと、現実に有り得るの?」
「有り得ているのでなんとも…。うちのドクターにも話を聞いてみたんですが、虐待などの心的要因から、自分で自分の成長を止めてしまうということも無いとは限らないそうです。憶測に過ぎないとのことでしたが」


幼児性愛という特殊な性癖を持つ男が二十七歳の女性を手元に置いておくのは、恐らくその成長が止まった特異体質故にだろう。
お気に入りであった少女が十数年も変わらない姿でいるのだから、それこそ手放す道理がない。
他の子供達は手放しても、ファルファだけは手元に残しているということから、その執心具合も容易に窺い知ることが出来るというものだ。


「だとすると、確かにまずいわね。ターゲットの始末に関しては心配してないけれど、昔馴染みの恩人に手をかけるなんてあの子には無理よねぇ」
「そんな特殊な状況下ならシゼルでなくても躊躇しますよ」
「…やっぱり普通はそうよねぇ。どうしようかしら。…キース、貴方手伝ってあげられる?」
「シゼルに出来ない時は俺が手を下せと?俺としては、あいつから嫌われるようなことはしたくないんですけどね…」


苦笑しながら本音を述べるキースに、ボスも困った風に溜め息を吐く。
何を言ってるの、と呆れ半分、恨み言半分な視線をキースに向けたボスは複雑は胸中を吐露した。


「私なんて知らなかったとはいえ、あの子に恩人を殺せって命令しちゃってるのよ?私からの命令を拒むことも出来ずに板挟みで、あの子きっと私のこと嫌うどころか恨んでるに違いないわ」
「それはボスの考えすぎだと思いますけどね。いくらあいつが子供っぽくても、その辺りはちゃんと割り切ってますよ」
「そうかしら?」
「そうですよ」


さらりとキースから肯定されて、それでもボスは納得がいかないというように難しい表情を浮かべる。
しかし、それも束の間。
一つ割り切ったように溜め息を吐くと、ボスは改めてキースに向き直った。


「…まぁ良いわ。キース、その報告書貸しなさい。後の手配は全て私がやっておくわ」
「珍しいですね、ボス自ら動こうだなんて」
「今回ばかりは特別よ。シゼルの恩人なのに死なせてしまう上、私に出来ることといえば後はもうこれくらいしか残ってないわ。あの子の親代わりとしては、その恩人に対して最大限の礼を払うのは当然でしょう?」


これ以上ないくらいにしっかりと弔ってやることが、この場合の最大限の礼儀だとボスは言う。
ボスと同意見なのか、一つ頷いたキースはボスの仕事机の上に持っていた報告書の束を置いた。
同時に、後は宜しくお願いします、と言い置く。


「では、俺もシゼルのところに行ってきます」
「あら、手伝いに行ってくれるの?」
「手伝う手伝わないはシゼル次第ですけど。まぁ、昔から泣くあいつを慰めるのは俺の役目ですからね」
「…私思うんだけど、キース、貴方シゼルのこと少し甘やかしすぎじゃない?」
「否定はしませんけど、ボスにだけは言われたくないですね」
「ほんっと可愛くないわね…!昔はあんなに可愛かったっていうのにこんなに生意気に育っちゃって!」
「流石にこの歳で可愛いと言われても嬉しくありませんよ…。それじゃあ、後の事宜しくお願いします」


誰に似たのかしら、と、ぶつぶつ不平を漏らしているボスに苦笑しながら踵を返す。
部屋を出ようとドアノブに手を掛けた時、ボスが打って変わった真剣な声でキースを呼び止めた。
何事かと振り返ると、ボスが座っていた椅子ごとそっぽを向いている。
そのままの状態から投げ掛けられた言葉と、その照れ臭さのためか固くなっているボスの声に、キースは思わず吹き出しそうになる。
それを辛うじて堪えたキースは、平静を装って背を向けるボスに頷いて返事を寄越した。


「ええ、ボス。わかってます。では、今度こそ失礼します」


笑いが混じる声でそう言い置くと、キースは今度こそドアを開けてボスの執務室から退出した。
それを確認したボスは一つ溜め息を吐くと深々と椅子に腰掛け直し、背凭れに身体を預けてポツリと呟きを漏らした。


「…もしかして、あの子より私の方が過保護なのかしら…」


先程部屋を出ようとするキースを呼び止めて伝えた言葉を思い出す。

『シゼルのこと、頼んだわよ』

らしくない自分の台詞に頭を抱えたくなる。
息子同然に育ててきたキースにまで、そのらしくなさが伝わってしまったのか可笑しそうに笑われる始末。
いくら後ろを向いていて姿が見えなかったとはいえ、キースが吹き出しそうになっていたことには気付いている。
うっかり突いて出た自らの言葉に自分が戸惑ってしまう。


「…そんなことないと思っていたけど、二十年近くも一緒にいると情が湧いちゃうものなのかしらねぇ」


悩ましく溜め息を吐いて、くるりと椅子ごと前に向き直る。
キースの出ていったドアを見つめ、次いで手元にある資料の束を手にとった。
キースの手によって詳細に纏められた資料には、キースが説明した通りの情報が書かれていた。
ターゲットに囲われ続けたファルファという少女。
正確には、少女ではなく立派な女性となっているはずだった。
キースの報告書から推測するに、この少女はシゼルの恩人ということ以前に、シゼルにとっては姉のような存在だったと言っても過言ではないだろう。
そんな相手を手に掛けなくてはならないなんて、なんという因果だと思わずにはいられない。
深く傷付いて帰って来るだろうシゼルには、どうしてやることも出来ない。どうしてやればいいかわからない。
だから、ここはキースを頼るしかなかった。
幼い頃から今日まで共に過ごしてきた二人だ。
キースならシゼルを元気付けることも慰めてやることも出来るはずだ、と、そう思う。


「…本当はさっさとキースのお嫁さんにするつもりだったのにねぇ」


元々は将来キースの結婚相手として、サタナキアの屋敷から逃げ出してきたシゼルを連れ帰ったのだ。
幼い頃からずば抜けて可愛らしい容姿をしていたシゼルは格好の嫁候補だったのだが、ボスの邸での生活に慣れた頃、あろうことかボスの仕事を手伝いたいと言い出した。
そして思春期を迎えた頃にはサタナキアの元にいたことが影響し、シゼルは『男』から庇護されるということを極端に嫌がるようになった。
ルノと、そして兄代わりであったキース以外の『男』に対しては、今以上に刺々しい態度を貫き、如何に組織内の人間であったとしても慣れ親しむことはなかった。
だからだろうか、仕事の際に男に取り入る時であっても、シゼルは相手に媚びて屈することを潔しとしない。
そんな、拾われた当時には心身共に衰弱し、成長してからは男というものに対して可哀想なくらいに警戒し、裏を返せば怯えていたとも言えるシゼルを常に支えて守っていたのはキースだ。
何かあっても、キースならシゼルをどうにか出来るだろうという思いがあった。
キースが自分で言っていた通り、泣くシゼルを慰めるのは昔からのキースの役目だ。
だから今回もキースに任せておきさえすれば大丈夫なはずだと、そう思いたかった。


「…私にしてあげられるのは、本当にこれだけね」


他にも何かしてあげたいとは思うものの、何をすればいいのかわからない。
せめて、今出来る精一杯のことをしてやろう。
そう考えて、ボスは作業机の上に設置してある電話の受話器を手に取った。