けそうぶみあわせ+安らぎの檻 朽ち逝くとき


 「まさか、雫があのようなことを言い出すとは思いませんでしたね」

 自らの主の側に腰掛け、困ったように、けれどどこか嬉しそうに玉藻が微笑む。
 それを見て、稲荷神はやや機嫌を損ねたように表情を歪ませた。
 
 事の発端は稲荷と玉藻の孫娘である雫が人間の男と一緒になりたいと言い出したことにあった。
 元々は、同じく孫である朝露と一緒にさせようと稲荷自らが独断で決めていたのだが、
 数十年前、雫はそれが嫌で一族から離れてしまった。
 俗にいう家出だ。
 その家出の最中に、件の人間と出逢ってしまったのだという。

 「…雫は間違いなくお前の血を引いてるな。人間の男なんぞに惚れ込む辺りがそっくりだ。
 似る必要のないところまで似なくても良いものを」

 苦虫を噛み潰したような表情で苦々しく愚痴を溢す主を見て、玉藻はふわりと笑う。
 そっと寄り添って稲荷の身体にもたれ掛かるように自身の身体を預けた。

 「なぁ、たま。雫はそんなに朝露と一緒になるのが嫌なのか?」
 「主様の孫可愛さもわかりますけど、雫は朝露とどうしても合わないんでしょう。
 だから朝露から逃げ出して、結果的に一生を添い遂げたいと思える相手に出会えたと」
 「とは言え、相手は人間だぞ?九尾に比べ、人間の寿命なんて瞬きほどの短さだ。それを…」
 「それでも共に生きると決めたんですよ、あの子は。
 だから、きっと私達がいくら反対したとしても、あの子のことは止められません」

 きっぱりと言い放つ玉藻の言葉には、これ以上ないほどの説得力があった。
 それを聞いて、稲荷は益々面白くないといった顔をする。
 玉藻自身、元々は人間の世の中で暮らしていた。
 かつては時の上皇であった相手と恋に落ち、上皇の計らいで入内を果たし、その寵を一身に受けた。
 しかし、一身に寵愛を受けていたとはいえ、御所内は陰謀渦巻く悪鬼の巣窟でもあった。
 一夫多妻の中で、夫から唯一人愛された玉藻を疎ましがった中宮から陥れられ、上皇の元に戻ることも出来ず、
 そんな紆余曲折があって稲荷神と出逢うに至る。
 もう何百年も前の話だが、人間に恋をした経験がある玉藻には孫娘の気持ちが痛いほどにわかった。
 あの頃の自分も、一度は一族を捨ててまでその人と共に生きると決めたのだから、
 雫の気持ちが生半可なものではないということくらい理解出来る。

 「…俺は朝露も悪くないと思うんだがな」
 「朝露も本当に主様そっくりに育ちましたものね」
 「だろう?!なのに雫は朝露の何が気に入らないんだ」
 「うーん……強いて言うなら、一途すぎるところでしょうか…」

 孫を思う優しさから、敢えて曖昧な言い方をする玉藻に、稲荷は不可解だといった表情を浮かべる。
 一途で何が悪いのか、と暗に問い掛けてくる主に、玉藻も困ったように微笑んだ。

 「私は主様が一途に私を思って下さるところに救われて惹かれましたけど、雫と私では状況が違いますから。
 雫は追い掛けられること自体が怖かったんでしょう」
 「…良くわからん」

 全く以て理解出来ないといった様子の稲荷に、玉藻もどう説明したら良いのかと弱りきったように首を傾げる。
 その時、稲荷と玉藻の前にゆらりと蒼白い焔が現れた。
 室内を照らしていた篝火の赤とは違う青い光が室内に灯る。
 狐火と呼ばれるそれは、徐々に人の形を形成していく。
 吹き消された蝋燭の炎のように、ふっと火が消えた時、そこには一人の少年の姿があった。
 少年はにっこり笑って、稲荷と玉藻の会話に割って入る。

 「簡単なことですよ。朝露は昔の稲荷様と同様がっつきすぎなんです。
 稲荷様の時は僕が歯止め役になれましたけど、歯止め役がいない朝露は暴走したい放題なんでしょう」

 歯切れが悪い玉藻に反するようにスッパリと明朗快活に言い切ったのは、玉藻の弟であり雫の実父でもある八重丸だ。
 娘である雫を宥め落ち着かせたところで、一族の主である稲荷の元に報告のため戻ってきたところだった。
 八重丸からもたらされた言葉に、稲荷は露骨に嫌な顔をする。

 「おい八重、聞き捨てならないな。この俺が何時がっついたっていうんだ?」
 「姉上を嫁にするってがっついてたじゃないですか、そりゃもう欲望の赴くままにってくらい。
 あの時僕が止めてなかったら、稲荷様、絶対姉上から嫌われてましたよ。断言出来ます。
 その証拠に何度暴走しかけて姉上から張り倒されたことか」

 昔を思い出すように、しみじみと語る八重丸に対して、稲荷の表情は益々不機嫌なものになる。
 傍らで玉藻も当時のことを思い出したのか、羞恥やら申し訳なさやらが入り交じった表情で項垂れている。
 その心境を表すかのように狐の耳がしょんぼりと伏せられていた。

 「…そんな昔のことはどうでもいい!今問題なのは雫のことだ!おい八重、雫とその人間の仲を裂けないのか?
 出来れば雫のためにも穏便に」
 「主様!」
 「そりゃあ稲荷様の力を持ってすれば物理的にも仲を裂くくらい造作もないでしょうが、それはあまりにも横暴すぎます」
 「しかしだな、九尾だとバレてしまえば、たまと同じように雫も辛い思いをするんだぞ?
 八重、お前も父親だろう。可愛い娘が傷付くことになっても良いのか?!」
 「良いわけないでしょう。ですが、雫の意中の人間は、雫が九尾だと知っているそうですよ」

 さらりと言ってのけられた八重丸の言葉に、稲荷は驚愕のあまり瞠目し、玉藻は驚喜したのか嬉しげに声を上げた。

 「雫の想い人は、雫が九尾であっても受け入れてくれる相手なんですね?」
 「そのようです。雫から話を聞いた限りでは、人間にしてはなかなか見る目のある男のようで」
 「主様、そういうことなら種族の違いで雫が傷付くこともありません。何の問題もないじゃないですか」
 「いや、しかし、寿命がだな…」
 「それは雫も覚悟の上だそうですよ」

 尚渋る稲荷の反論に止めを差すように、八重丸が雫の言葉を伝える。
 あまりにも冷静でさらりと言い切る八重丸に、食って掛からずにはいられないと稲荷は口を開く。

 「だからお前は雫が傷付いても良いのか!正体がバレて傷付くことはなくても、
 相手の人間が早々に死んで傷付くことは間違いないんだぞ?!」
 「遅かれ早かれ番のどちらかは先に死ぬものですよ、稲荷様。ちょっと落ち着いて下さい」
 「これが落ち着いていられるか!親であるお前がそんなことでどうする?!雫を不幸にさせたいのか」
 「大袈裟ですよ、稲荷様。大体ですね、当の雫が人間と共に生きることを幸せと感じているんです。
 その人間と引き離されることと、朝露と番にさせられることこそを不幸と感じている。
 ならば、僕は一族として親として、雫が幸せと感じている方を支援するしかないじゃないですか」

 理路整然、正論すぎる八重丸の言葉を前にしては口ごもるしかない。
 玉藻も完璧すぎる弟の言い分にパチパチと拍手を送っている。
 まさに神としての威厳も夫としての威厳も形無しだ。
 がっくりと項垂れた稲荷は、それでもぼそりと呟きを溢した。

 「だったら、朝露はどうなる…」
 「…それが本音なんですね」

 要は、稲荷は孫二人共を心配するあまり支離滅裂な発言を繰り返したということだった。
 雫が雫が、とは言っていたものの、雫が人間と一緒になるということは、もう一人の孫である朝露が可哀想なことになる。
 雫が人間と一緒になることを阻止すれば、朝露は幸せ絶頂だろうが、雫が不幸の絶頂に陥る。
 いくら神といえど、命運を変えることは出来ても人の気持ちを操ることは容易ではない。
 そこが面白いという神々もいるが、少なくとも稲荷はそうは思わない。
 玉藻を嫁にする云々の件で、気持ちを操ることの容易でなさは身に染みてわかっている。
 なので、雫と朝露の件は稲荷の神通力が及ぶ範囲ではないと半ば静観していた。
 雫が家出しても何処にいるかはすぐにわかったし、人間と行動を共にしているのも知っていた。
 しかし、ただそれだけだと思っていた。
 それがまさか恋仲になっていようとは。
 雫が傷付くようなことさえなければ、と思い、成り行きに任せて見守ってはいたが、その結果がこうなるとは予想外だった。
 このままでは、雫は幸せかもしれないが、朝露は不幸になってしまう。
 複雑な祖父心だ。

 「朝露は大丈夫ですよ。稲荷様に似て神経図太いですから」
 「誰が神経図太いだと?!」

 事もなく言ってのける八重丸の言葉に、いちいち稲荷が感情的になって噛み付く。

 「ま、まぁまぁ…。でも朝露のことですから斜め上を行って、意外と雫とその殿方との間に出来た子供の方を
 溺愛するようになるかもしれませんね。私としてはそちらの方が喜ばしいですけれど」
 「…どうしてだ?」
 「雫と朝露が番になることは主様のご命令でしょう?朝露は主様に傾倒してますから、主様の言うことは何だって聞きます。
 …そういうことではなく、私は朝露にも自分から好きになった相手と幸せになってもらいたいのです。
 まぁ、朝露は確かに雫のことを好いていますけど、あれは美しいものを愛でる時の気持ちに近いのではないでしょうか。
 それを恋慕の情だと思い込んでいるように、私には思えます」
 「……確かに、朝露の行動は誰かを好きになった時のものとは微妙に異なる気がするな…」

 玉藻から宥めるように諭され意見を伝えられ、稲荷も落ち着きを取り戻して考え込む。
 朝露の雫に対する言動を思い起こしてみれば、成程、玉藻が言うことにも一理あるようだ。
 数百年前、玉藻に振り向いてもらうために試行錯誤した身としては、朝露の行動は当時の自分とは相当違っている。
 好きな相手を喜ばせたい。
 そして笑いかけてほしい。
 そういった、誰かを好きになれば抱いて当然の気持ちを朝露は一切持っていないように思える。
 朝露が雫に向けている気持ちは、朝露自身が満足なら雫が喜ぼうが悲しもうが関係ないといった類いのものだ。
 だから、朝露は雫に恋などしていないのではないか。
 だとすれば、玉藻の「孫には心から好きになった相手と幸せになって欲しい」という台詞には祖父として大いに賛成だった。
 反論する理由がない。

 「たまが言うことは尤もだ。…だが…だがなぁ……」

 尤もだと言いつつ、稲荷は煮えきらない態度で頭を掻く。
 玉藻の言うことには全面的に賛成だが、やはり両の孫が可愛いあまり、二人を番にさせたいという望みが捨てきれないらしい。
 うんうん唸って何度も首を傾げながら悩んでいる。
 そんな稲荷の姿を視界の端に捉え、そういえば…と八重丸がややわざとらしく何かを思い出したかのように呟いた。

 「雫が好きになった人間は、何処かしら稲荷様に似ているんだとか…」

 その呟きに、稲荷の動きがぴたりと止まる。
 玉藻も驚いたように弟に視線を向けた。
 稲荷と玉藻の視線を一身に浴び、八重丸は再度にこっとあどけなく微笑んで見せる。

 「まぁ勿論外見は似ていないようですが、雫だって気高き九尾の血族です。
 加えて、ただでさえ朝露との件で番になるということ自体を嫌悪していたというのに、その雫の気持ちを射止めたというなら
 人間と言えど並大抵の男ではないのでしょう」

 そこで一旦言葉を区切った八重丸は稲荷だけに向き直る。
 そして再度口を開いた。

 「それこそ稲荷様が姉上にしたように、その人間の男も雫の疲れきった心を癒してくれたのでしょう。
 その点に関しては、確かに僕の目から見ても稲荷様と雫の相手の男は似てると言えるかもしれませんね。
 僕は親として朝露に雫をやる気にはなれませんが、稲荷様のような気概を持つ男になら、雫をやってもいいと思ってますよ」

 姉上のように雫も幸せにしてもらえるはずです、と締め括れば、眷族とはいえ義弟から褒められたことが照れくさいのか
 稲荷は緩む口許を押さえてそっぽを向いた。
 稲荷の性格柄、持ち上げられれば調子に乗るということは熟知している。
 そこを上手く突いて、如何に穏便に稲荷の機嫌を取りつつ意見を曲げさせるかが歯止め役としての八重丸の腕の見せどころだ。
 伊達に何百年も稲荷の片腕として側に仕えているわけではない。
 稲荷が顔を背けたのを良いことに、ほくそ笑んだ弟を見て玉藻も呆れたような表情を浮かべた。
 そして表情を改めて稲荷に向き直る。

 「…主様」

 未だそっぽを向いたままの夫の着物をそっと引っ張った。
 玉藻の懇願するような声に、稲荷もまだ若干頬を赤らめたままギクシャクと振り返って玉藻を見詰めた。
 玉藻は敢えて何も言わずに目で訴えかけてくる。
 玉藻が言わんとしていることがわかっているだけに、稲荷は玉藻の視線から一旦目を逸らし、
 そんな目で見るなとばかりに気まずそうに視線を泳がせる。
 しかし、諦めたように溜め息を吐くと勿体付けるような緩慢な動作で八重丸に向き直った。

 「……おい、八重」
 「何でしょう」
 「雫は動けるか?」
 「元気だけは有り余ってるみたいですから、動けるでしょうね」

 八重丸からの答えを受けて、稲荷は再度大きく息を吐いた。
 漸く腹を括ったらしい。

 「雫にその人間の元へ案内するように伝えろ。俺が直々に雫を任せるに値する男かどうか品定めしてやる」
 「…素直じゃないですねぇ」
 「何か言ったか?」
 「いいえ、何も」
 「ふん、たかだか人間一人のためにこの俺が骨を折ろうと言うんだ。感謝しろよ、八重」
 「そりゃもう。娘のためにご尽力下さる偉大な主を持って、僕は大変な果報者ですよ」

 やたらと白々しく聞こえる八重丸の返事に釈然としないのか微妙な表情を浮かべた稲荷だったが、敢えて聞き流すことにしたようだ。
 黙って、そしてやや億劫そうに立ち上がる。
 それを見た玉藻も直ぐ様立ち上がり、側の几帳に無造作に掛けてあった薄衣を手に取った。
 それを持って稲荷の傍らに舞い戻る。

 「私もお供します。雫の心を射止めたのがどのような人なのか気になります」

 稲荷に薄衣を手渡しながら玉藻が微笑む。
 玉藻に続いて立ち上がった八重丸も穏やかに笑みを浮かべる。

 「勿論僕も雫の父親としてその男に会う必要がありますから、ご一緒しますよ」
 「好きにしろ。……行くぞ」

 すっ、と、稲荷が前方に方手を翳す。
 ガタンと音を立てて拝殿の扉が開いた。
 ふわりと外から夜気を含んだ風が入り込み、篝火の炎を妖しく揺らめかせる。
 玉藻から受け取った薄衣を纏い靡かせて稲荷が拝殿の外へと歩を進め、その後ろに玉藻と稲荷が付き従う。
 ちりん、と何処からともなく鈴の音が響いた。
 まるで稲荷の歩みに合わせるように、ちりん、ちりーん、と鈴が音を奏でる。
 宵闇の中、誘うように惑わせるように響く鈴の音と共に拝殿を抜ければ、拝殿の外にはずらりと赤い鳥居が並んでいた。
 果てが見えないほど延々と続く赤い鳥居の側には稲荷の眷族に下った沢山の狐達が控えており、
 無数の赤い狐火が暗闇の中でぼんやりと鳥居を照らしている。
 鳥居の元に集った狐達を悠然と見やってから、稲荷は最初の鳥居を潜る。
 ちりん、という音と共に玉藻と八重丸が稲荷に続いた。
 ゆらりと一つ目の鳥居を照らしていた狐火が揺れる。
 二つ目、三つ目と鳥居を潜っていく。
 そうして進んでいくと、いくつ目かの鳥居の脇から雫が祖父母と父親の前に姿を現した。
 やや緊張した面持ちで祖父母と父親の前に立つ。

 「雫、事情はわかっているね?」
 「はい、お父様。お祖父様、お祖母様、ご案内致します」

 頭を垂れて答えた雫はくるりと前を向くと、先導するように先頭を歩き始めた。
 稲荷神の神通力で此処の鳥居と人の世に点在する鳥居は繋がっている。
 今は雫に案内が一任されているため、雫の思うままに道が繋がる。
 最終的な目的地は冬耶のところだ。
 冬耶の生家である冴滌家の側にある小さな稲荷社の鳥居へ向けて歩を進める。
 祖父母と父親に冬耶との仲を認めてもらえるか、緊張と不安とで落ち着かない雫の胸中とは裏腹に、鈴の音だけが涼やかに鳴り続ける。

 「…稲荷様」

 沈黙を破るように、八重丸が前を歩く稲荷の名を呼んだ。

 「何だ」

 稲荷はちらりと後方を一瞥して八重丸に続きを促す。
 八重丸は相変わらずのサラッとした語り口で進言した。

 「雫の意中の男が稲荷様の意に叶ったとしたら、稲荷様は可愛い孫娘のために何をして下さる気でいらっしゃるのかと思いまして」

 あまりにも事も無げに紡がれたその内容に、危うく聞き流しそうになったものの、反芻して八重丸が言うことを理解した途端、
 稲荷はギョッとして振り返った。
 八重丸はこれまた相変わらずの人畜無害な笑顔を稲荷に向けている。
 そして追い討ちを掛けるように玉藻と、そして雫までもが声を上げた。

 「主様、そのようなことを考えてらっしゃったんですか?素敵な贈り物じゃないですか!」
 「お祖父様…!」

 良く似た顔が二つ、嬉しそうな声を出し、嬉しそうな表情を浮かべて稲荷に熱い視線を注いでいる。
 妻と孫娘のあまりに華やいだ表情を見て、咄嗟に喉元まで出かかった「違う」という反論を飲み込む。
 八重丸の言葉に乗せられるのは大変に癪だったが、こうなってしまっては仕方がない。
 玉藻と雫から嫌われることこそ最も憂慮しなくてはならない事態だ。
 それを避けるためなら、多少の手間もやむを得まい。

 「…ふん、可愛い雫のためだ。雫が人間と共に生きる以上、人間の世の中で暮らさなければならなくなるわけだろう?
 ならば、その土地で生活しやすくなるよう手助けくらいはしてやろう」
 「お祖父様、手助けとは…どのような?」
 「お前達が暮らすことになる村一帯には絶対の安寧と豊穣を授けてやろう。
 九尾である雫を受け入れ、俺を信仰し続ける限りな。飢餓に怯える人間どもには無下に出来ない話だと思うぞ」

 ふふんと得意気に稲荷が言い放つ。
 その言葉に玉藻と雫はこれ以上ないくらい喜び合い、八重丸は驚いたのか呆れたのか心底感心したのか判別が付け辛い声を出した。

 「それはまた太っ腹な…」
 「何だ八重、文句でもあるのか」
 「滅相もありません。娘の結婚祝いとしてはこれ以上ないくらいの素晴らしい贈り物だと思います。
 稲荷様のお心遣いに感謝しきりです」
 「けっこん…!?俺はまだその人間を認めたわけじゃないぞ!あくまでも認めたらの話だからな!!」
 「ええ、ええ、わかってますとも。有難うございます、稲荷様」
 「有難うございます、お祖父様」

 後方からは八重丸、前方からは雫の父娘に挟まれ、先回りに礼を言われてしまっては最早稲荷に出来ることは言葉を詰まらせることだけだった。
 思わず足を止めた稲荷をするりと追い越した八重丸は娘の隣へと歩み寄る。

 「雫の選んだ男だから心配はしていないけれど、ロクでもない男だったら僕だって許さないからね」
 「大丈夫です、お父様。絶対お父様もお母様もお祖父様もお祖母様も皆認めてくれるはずです!
 冬耶は朝露と違ってロクでもなくなんてありません!!」
 「なら安心かな?」

 八重丸の見た目年齢が雫の見た目と大差無いためか、まるで兄妹が何気ないおしゃべりをしているようだ。
 内容は結婚の許可とあって深刻なはずだが、不思議と和やかな調子になるのはこの父娘だからか。
 にこにこと嬉しげに笑う雫と穏やかに微笑みながら娘の話を聞く八重丸を見た玉藻が、歩みを止めたままだった稲荷の腕にそっと触れた。
 隣に立って、背の高い稲荷を見上げ微笑みかける。
 そしてもう一度弟と孫娘へと視線を向ける。
 稲荷も玉藻の動作につられるように八重丸と雫の父娘を見やった。

 「…主様にはあんなこと言ってましたけど、あの子もきっと本心では寂しいんでしょうね。一人娘で、やっと戻ってきたと思ったら…」
 「一緒になりたい男がいる、だからな。昔は雫も八重にべったりだった気がするんだがな」
 「べったりでしたよ。だからこそ、そんな可愛い娘が良く知りもしない、それも人間の男の元に嫁ぐなんて、主様以上に認めたくないはずなんです。
 朝露の件とはまた別の話になりますけれど。でも、あの子は私が彼の人と一緒になるために悩みに悩んで一族を捨てたことを間近で見ていましたから 、娘には一族を捨てるなんて苦渋の決断をさせるより、祝って送り出してやろうとしているんじゃないでしょうか」
 「…素直じゃないのはどっちだ、全く。…これで本当にその人間の男がロクでなしだったら、俺より八重からの鉄槌の方が恐ろしいかもしれんな」

 思ったことを素直に口に出せば、玉藻も「確かに」と可笑しそうに笑う。
 その気配に気付いたのか、自分の話をされていることに何か感じたのか、随分先を歩いていた八重丸が足を止めて振り返った。

 「稲荷様、姉上、何をなさっているんです。置いて行きますよ?」

 怪訝な表情を浮かべながら、立ち止まっていた稲荷と玉藻に声をかけた八重丸は、ついと再び前を向いて雫と共に歩き出す。
 その様子を見て、思わず顔を見合わせた稲荷と玉藻は小さく微笑み合ってから、前を行く八重丸と雫に追い付くべく踏み出した。

 「…もし、もしも、だぞ?俺が雫の相手の男を認めて八重も認めて、雫が人間の元で暮らすことが決まったら……
 雫を祝って、八重を慰めてやらなければいけないな」
 「ええ、その時は宜しくお願い致します」

 先を行く父娘の仲睦まじい姿を見守りながら、稲荷と玉藻は寄り添いながらゆっくりと八重丸と雫の元に歩を進める。
 ちりーん、と軽やかに鈴の音が鳴り響いた。