勿忘菫−わすれなすみれ−


「ごじょうくろと・・・・・・くろと・・・・・・くろとぉ・・・?」

翠は何度もその名を繰り返し口に出し、
紙に書かれた名前と黒曜の顔を交互に見比べていた。
紙には「冴滌黒冬」という文字。
黒曜の本名だ。

「黒冬・・・さん・・・?」
「・・・何だよ、さっきから」
「・・・なんか違う人みたいで今一つしっくりこないっていうか・・・」

変な感じ、と翠は小首を傾げる。

「暁様の本名は冴滌・・・曉、なの?」
「いや、兄貴の曉って名前も改名したヤツだそうだ。本名は緋秋(あかとき)」

さらさらと筆を走らせ、曉の本名を教えてくれた黒曜に、
へぇ〜と感心したように頷きながら翠は言葉を続けた。

「秋と、冬の名前なんだね」

綺麗だね、と。
曉の本名、緋秋の名は紅葉に染まる秋を表しているかのようで。
黒曜の本名、黒冬の名は冬の夜の暗闇の中でしんしんと静かに
六花が舞い落ちる情景を思い起こさせるような。
そんな名前。

「あれ?でもこの名前の付け方だと春と夏がありそうなんだけど・・・・・・黒曜って兄弟は曉様だけ?」

翠の疑問に黒曜は、否、と首を横に振る。

「姉が二人いたそうだ。春日と夏萠(なつめ)って名前だったらしい。俺は全く覚えて無ェけどな」

そう言って煙管をくわえる黒曜の表情は心なしか淋しげで。
さらりと頬に落ちる黒曜の長い髪が影を落とし、黒曜の表情をより切ないものに見せる。

「・・・やっぱり、記憶がないのは辛い・・・?」
「・・・今までは別に記憶なんて戻らなくても、
今の暮らしに満足してるからどうでもいいと思ってたんだけどな・・・」

けれど、中途半端に思い出してしまったから。
間違いなく曉・・・緋秋が兄だったのだという記憶、姉がいたという記憶、家族があったのだという記憶。
それでも思い出したのは兄と過ごしたことだけで。
他の姉二人や両親に関しては存在したということだけしか思い出せなかった。
だから、余計に辛い。
そんな黒曜にもたれ掛りながら、翠自身も沈んだ顔をしてポツリと言葉を溢した。

「・・・ごめんね」
「あ?」

突然の翠の謝罪に黒曜は怪訝な声を上げる。
膝を抱えてすり寄ってくる翠に視線を移し、言葉の続きを待つ。

「・・・それでも僕は、黒曜が全部を思い出してくれなくて良かったって思ってるんだ」
「どうしてだ?」
「全部思い出しちゃうと、引き替えに黒曜は僕のことを忘れてしまうかもしれないから」
「・・・どういうことだ?」

意味がわからないという目で自分を見てくる黒曜に、翠は顔を上げて黒曜と視線を合わせる。
スッ、と腕をのばして黒曜の髪・・・頭に触れた。

「あのね、黒曜は自分の記憶のことに無頓着だったから知らないと思うけど・・・
僕はね、ずっと黒曜の記憶が戻らないかと思って沢山本読んだりして調べてたんだよ」

そうしたら、と一旦言葉を区切って翠は話を続ける。

「人間の脳ってね、思った以上に凄く複雑で・・・」

記憶が戻ったら、記憶を失っていた間の自分は消えるということ。
だから、今度は記憶を失っていた間の思い出が消えてしまうかもしれない。
そういうことだって有り得るのだ、と読んだ専門書にも書いてあった。

「勿論、全部が全部そんな風になるとは限らない。でも少しでも忘れられてしまう可能性があるのなら・・・
・・・僕は黒曜の記憶が戻る時がきて欲しくない、怖くて堪らない・・・」

考えるだけで恐ろしい。
黒曜から忘れられるということは、居場所がなくなるということ。
唯一無二の親友には、二度と戻れないかもしれない。
もう、今のように名前を呼ばれることも、頭を撫でてもらうことも、
夜に黒曜と一緒に眠る優しい時間だってきっとなくなってしまう。
それは二度も“ 兄” を失うことを意味する。
親友という概念だけではない。
一方的とは言え、冥界での兄だと思っている黒曜から存在を忘れられてしまえば、
何よりも大切なものを根こそぎ失ってしまうのだ。

「僕の居場所・・・ココにしかないから・・・」

自分勝手な我が儘だとわかっているけれど。

「僕から居場所を奪わないで・・・」

どうか、僕の前から“黒曜”という人を奪わないで。

「いなく、ならないで・・・」

消え入りそうな声での懇願・・・むしろ哀願と言える翠の様子に黒曜は苦笑を向ける。
そしていつものようにポンポンと翠の頭を軽く叩くように撫でてやる。

「ホントに、お前はいつも最悪のパターンしか考えねぇな」

もう少し前向きになれよ、と頭を撫でてやりながら諭してみる。
しかし、翠はふるふると頭を振って黒曜の言葉に反抗した。

「だって、もしもってことがあるかもしれないじゃない!心配して何が悪いの?!」

決死の、しかも泣きそうな形相で食い下がってくる翠に、黒曜は思わず本気で吹き出してしまった。
そんな黒曜を見て、笑われてしまった当の翠は信じられないというような表情を浮かべる。
誰のせいで自分がこんなに必死になってると思っているんだ、と暗に眸が物語っていた。

「お前は少し心配性すぎるんだよ」
「黒曜が無頓着な上に呑気すぎるんだよ!自分のことなのに・・・
それとも黒曜は冥界でのこと、何もかも忘れたって構わないっていうの?」

笑いながら額を小突いてくる黒曜を、
ギッと睨め上げると翠は不満タラタラというような口調で言葉を紡ぐ。
僕のことも忘れたって良いって言うの?!という意味も遠回しながら濃く含まれているようだ。

「誰もそんなこと言ってないだろうが。俺だって忘れたくないに決まってるだろ」

眉根を寄せて、その整った顔をしかめている翠に苦笑する。

「じゃあ何でそんなに呑気なのさ?忘れちゃうかもしれないのに」
「忘れねぇよ」

キッパリと断言する黒曜に、翠は訝しげに瞠目した。
何故そんな風に自信満々に言い放てるのだろう・・・。

「それはどういう根拠があって言えるの?」
「根拠なんて無ェよ。俺の直感」

何を言うんだ、この男は・・・と、翠は思い切り脱力する。
そんな曖昧なもの、信用に足る訳がない。

「・・・馬鹿か、阿呆か、このボンクラ大王が・・・!」

真剣に案じている自分が馬鹿らしくなってくる。
真面目に取り合ってくれない黒曜に怒りさえ覚えて、思わず口から辛辣な言葉が溢れた。

「コイツ・・・!可愛くないことばっか言いやがって!」
「ちょっ、わっ!やだ痛い・・・っ」

黒曜から首に片腕を回されガッシリと捕獲されて、
胡坐を掻いている黒曜の膝上に上体を引き寄せられる。
そして逆の手・・・それもゲンコツで頭をグリグリとされる。

「痛っ、痛いってば!やめてよ馬鹿、横暴、最低ッ!!」
「お前が可愛くねぇこと言うからだろうが。もっと痛がれ、そして泣け」

如何にも楽しそうな意地の悪い声が頭上から響く。
ジタバタと黒曜から逃れるために足掻く翠が、このやろうとばかりに声を張り上げた。

「この・・・最低鬼畜男ッ!!」

ドSめぇええ!と涙声で叫びながらもがく翠と、
さも愉快そうに翠を苛める黒曜はただじゃれ合っているようで。
こうしている時間はとても心地良いもので、黒曜も、
そして苛められるとは言え翠もこの瞬間は好きなのだ。
とても温かい、何より尊い時間。
・・・ただ、苛める黒曜とは違い、いつも敵わない翠としては物凄く疲れる時間でもあった。
勿論、今日も例外ではなくて。

「も・・・無理・・・・・・」

頭グリグリから、何故かしら擽りに発展していったせいで全身を擽られ、笑い疲れた翠は、
ぐたっと黒曜の胡坐を掻いた膝の上に倒れ込んだ。
ぜぇはぁ、と翠は荒くなってしまった吐息を必死に整えようとする。
そんな翠を見下ろす黒曜は静かに口を開いた。

「・・・なぁ、翠」
「何?」

黒曜の膝から顔を上げて、黒曜の顔を見ようとした途端。
黒曜は翠の頭を押さえ付けるようにして、わしわしと乱暴に頭を撫でた。
翠の耳に柔らかい声音が響く。

「・・・約束してやる」
「え?何・・・?」

何を約束してくれるのか。
不思議に思って、黒曜の言葉の続きを待つ。

「何があっても、お前のことも冥界でのことも絶対忘れねぇよ」

約束だ、と確信と自信に満ちた黒曜の声に、根拠がないにも関わらず無条件で信じそうになる。
100%信用に足るわけではないけれど。
それでも、今は黒曜の言葉を信じてみようか。

「ホントに、約束だからね?」
「俺は冗談は言うが嘘吐いたことは無いはずだぜ?」

ふふん、と鼻で笑う黒曜の言うことは確かに事実で。
翠は、絶対約束だからね?と念を押す。

「・・・でも、もし約束破ったらどうしてくれようか」
「その時はお前の言うこと、何だってきいてやるよ」
「言ったね?ちゃーんと覚えとくよ」
「忘れねぇって言ってんだから覚えとく必要無ェだろうが」

黒曜の言葉に、翠はぶんぶんと勢い良く頭を振る。

「つか、俺が落ち込んでたハズなのに何で俺がお前慰めてんだろうな。ワケわかんねぇ」

翠の頭を再び撫でながら、黒曜は一人ごちる。
むしろ慰めて欲しかったのは此方の方だろうに、と。

「そんなの、黒曜が悪いんだよ・・・」
「ふぅん・・・・・・そうか、まだ擽られ足りないか。良いぜ、泣いて許し乞うまでやってやるよ」

サッと翠の顔色が変わる。
酸欠にさせる気か・・・!

「冗談じゃないよ、このドS・・・っ!!」
「俺がSならお前は間違いなくMだろ」
「僕は意地悪されて嬉しいなんて思わないよ!変態な黒曜と一緒にしないで!!
・・・って、わあぁぁあ!やめっ、いや、いやあああぁ・・・・・・」

うつ伏せにされた上に黒曜から背に乗りかかられる。
擽り地獄が始まり、黒曜の部屋に翠の断末魔が響き渡った・・・。


「ぁっ・・・は・・・・・・も、もぉ許して・・・」
「“ ごめんなさい” は?」
「・・・ごめ、なさぃ・・・・・・」
「“ お願いします、許して下さい黒曜様” は?」
「・・・お願・・・します・・・・・・許して、下さ・・・ぃ・・・・・・」

そこまで言うと沈黙してしまった翠は最後の『黒曜様』という部分をなかなか口にしようとしない。
それに痺れを切らした黒曜は、翠の脇腹辺りに手を差し入れた。

「ひゃっ・・・ふわあぁぁ・・・」

バタバタと脚をバタつかせて悶える翠により体重をかけて押さえ付け、更に身体をまさぐる。
やめてくれと半泣きで訴えてくる翠の耳元に唇を寄せると、黒曜は意地悪く囁いた。

「やめてほしかったら“ 許して下さい、黒曜様” だろ?」
「んぅッ・・・も・・・やァ・・・・・・ぁ、っは・・・!ゆ、るして・・・下さっ・・・・・・こく、よ・・・さまぁ・・・」
「よし」

黒曜は満足いったように笑みを浮かべると、翠から手を離した。
それでも細い翠の身体の上に乗りかかったまま、
ゼェゼェと苦しそうに呼吸を繰り返している翠を見下ろして面白そうに声をかける。

「か弱いな、翠」

ニヤニヤしている。
完全に勝者の、してやったりという顔だ。

「うぅ〜〜っ!もうっ!さっさと退いてよ、黒曜重いよ・・・!!」
「何だ、その態度は。“ 退いて下さい、黒曜様” だろうが」

悔し紛れに憎まれ口を叩いてジタバタ暴れる翠。
そんな翠を見ておかしそうに笑う黒曜。
いつものように優しく流れる時間。
このまま、いつまでもずっとこの関係が続けば良いのにと願った。
このまま、いつまでもずっと親友と過ごす心地良い時間が続けば良いのにと願った。
望むのは、ただそれだけ。

まるで菫のように素朴で儚い、そしてその蜜のように甘やかな願い。
忘れじの雨に打たれ、鮮やかに紫を際立たせるように。
どうかこの刹那の鮮明な思い出よ、永久に鮮やかに咲いていて・・・。