夢宵桜−ゆめよいざくら−


ぼんやりと霞む視界、かすかに聞こえてくる声。

「黒曜さん・・・やっぱり、行きたくないです・・・」

何十年・・・いや、何百年前のことだったか。
あれは、黒曜と出会ったばかりの頃の自分だ。
それでは此処は夢の中か・・・。
黒に琥珀が混ざった不思議な色合いの髪は相変わらずだが、
疾うに無くしたはずの長い髪がサラサラと風になびいている。
黒曜を呼ぶ時も、さん付けで、今思うととてもむず痒い。
きっと自分のことを、私と呼んでいた頃だろう。

「ここまで来てなんだよ。折角花見に来たんだろ?良いから行くぞ」

渋る僕を、黒曜は有無を言わせぬ力で引っ張っていった。
この時は、しつこい黒曜の押しに負けて花見に付き合うとは言ったものの、
正直桜を見るのは怖くて辛くて堪らなかった。
だから直前になって渋ったものの、黒曜は許してなどくれなかったっけ。

目的の場所までもう少し。
側を流れる川のせせらぎが耳に優しくて、
出来るならこれ以上進まずに此処に止まっていたかった。

「黒曜さん・・・ね、花見は止めて、此処で涼みませんか?水がとても綺麗ですし・・・」
「お前も大概しつこいな。今日は花見だって決めただろ?大体水遊びするような歳でもないだろうが」

呆れたとでも言うような黒曜の表情と声に叱咤され、
どうしようもなくなった僕は大人しく黒曜に手を引かれるしかなかった。
風が桜の香りを運んでくる。
夢なのに香りがあるだなんて・・・本当に可笑しな夢だ。

「翠、ほら見ろ・・・・・・綺麗だな」

ヒラリ、ヒラリと風に舞う春の雪。
確かに綺麗と言えるその光景。

「ぁ・・・・・・」

風に遊ばれた花弁の一つが髪に触れる。
今では何とも思わずにいることが出来るけれど、この時は心の底からゾッとした。
桜の花びらが血の飛沫を嫌でも思い出させてしまうから。
僕にとって桜は血の象徴でしかない。
如何に薄桃色の桜だとて、どの桜を見ても緋色に染まって目に映る。
悲色の記憶を蘇らせる、桜の幻影。

「ゃ、だ・・・嫌ッ」

怖い。

記憶に囚われそうになる。

助けて、と眼前にいる黒曜に震える手を伸ばしてしまう。
結い上げることもせず、風に流している黒曜の、夜を思わせる長い髪を掴む。
勢い余って引っ張ってしまった。

「いってぇ!!ちょ・・・翠、髪引っ張んな!何だよッ?!」
「・・・く、よぅさ・・・・・・も、帰りたい・・・」

僕を見る黒曜の眸が驚きで揺れている。
そりゃあそうだろう。
まさか桜を見て泣くとは、僕自身思ってもいなかったんだから。

「・・・どうしたんだよ。俺はお前いじめて泣かすのは好きだが、
いじめてもいねぇのに泣かれるのは好きじゃねぇんだぞ?・・・ほら、泣きやめ」

前半にとてつもなく引っ掛かりを覚えたが、背を撫でてくれる黒曜の手が
優しくて温かくて・・・聞かなかったことにする。

「お前、桜が嫌いだったのか?」
「・・・・・・怖い・・・です・・・」
「嫌いは治さなきゃいけないもんだろうけどなぁ」

黒曜の腕の中で僕はふるふると首を横に振って拒絶する。
こればっかりは、そう簡単に治ってくれるわけがないのだから。

「しょうがないな、帰るか」

黒曜の言葉にホッとして、部屋に戻ったんだっけ。


その夜、少し出掛けてくると言って部屋を出た黒曜は桜の小枝を一本携えて戻ってきた。
僕の桜嫌いを治すために。
その日から毎年、黒曜は桜の小枝を必ず一本手折ってくるようになった。
始めは小枝すら見るのも嫌だったが、毎年毎年繰り返されると嫌でも慣れるもので。
今では花見も普通に出来るようになった。
・・・ただ、僕は桜嫌いを克服出来たというのに黒曜は
相変わらず毎年桜の小枝を持ち込み続けている。


夢から醒め、ふと枕元を見れば細い小さな花瓶に活けられた、一本のその小枝。
夢の中でかいだ芳香はこの桜のものか。
隣で眠っているこの男は今宵もまた桜泥棒をしてきたらしい。
気付いていないのか、黒髪を一枚の桜の花びらが飾っている。
黒曜が起きないように花びらをそっと髪から拾い上げる。
過去、あんなに忌み嫌っていた花が今となっては好きな花に数えられるなんて不思議なものだ。
それもこれも、黒曜のおかげ。
最初は余計なお世話だと思っていたけど、人の優しさというものを教えてくれた。
親友という居場所をくれた。
今の関係のキッカケはひとえに、あの懐かしい夢の日の出来事だったのかもしれない。
大切な大切な想い出。



我が内を  染め咲き誇る  夢桜
幾年経ても  霞を知らず

僕の記憶の中でずっと咲き続けている桜は、辛い記憶を司る悲色の桜と、優しい記憶を司る淡色の桜。
この二つの桜は、二つともに何百年と時間が経っても鮮明な記憶を携えて咲き誇る。
現のように春霞を受けて翳る桜とは違い、花が霞むことはない。
想い出が霞んでしまうことはないんだ。
辛い想い出、優しい想い出・・・・・・この想い出達が存在するからこそ今の僕があるのだから。