安らぎの檻 朽ち逝くとき−重たい足枷*後編−


「いいなずけ……?お漬け物の一種ですか?」

真顔でそんなことを言い出し、更にはより真剣な顔で美味しいかと問い質してくる雫に、
冬耶は呆気にとられてあんぐりと口を開けたまま固まってしまった。
確かに響きは似ているかもしれないが、どういうボケ方だそれは!と叫びそうになって、押し留まる。
狐に人間の常識を期待してはいけない。
期待するだけ此方が馬鹿をみるということは、雫と共に旅をする中で嫌というほど学んだことだ。

「許婚っていうのはな、将来婚姻を結ぶことが決まってる相手のことだ。
まぁ、狐のお前にはピンとこない話かもしれないが」
「馬鹿にしないで下さい。つまり将来的に番になる相手ってことでしょう?そんなの私にだっています」

雫の発言に、またしても冬耶は驚いて瞠目する。
如何に神の眷族である九尾といっても、
動物たる狐の世界に人間の世界と同じような仕組みがあったということにも驚いたが、
その上雫にも自分と同じように許婚がいたということの方が遥かに度肝を抜いた。
こんな高飛車な女を嫁にもらいたいなんていう物好きがいるのか。

「…今更言うのもなんだが、そんな相手がいるのに俺と旅なんてしてていいのか?」
「好きでその…いいなずけ?な関係になったんじゃありません。
嫌で嫌で仕方なくて、ずっと逃げてきたんです。だからこの旅だって私にとっては好都合なんですよ」

冬耶の気にすることじゃありません、と雫は自分の髪を撫でつけながら飄々と言い放つ。
てっきり狐の社会では嫌々夫婦になるなんてことは有り得ないことだと思っていた。
そういえば、雫のことに関して知らないことも多い上、異種族の社会というものにも興味がある。
自分の許嫁云々への追求を避けるにも良い手だと思い、冬耶は逆に雫に話を振ることで話題を変えた。

「嫌で仕方がない相手と結婚しなきゃいけないのか?その相手はお前が決めたんだろう?違うのか?」
「違います!誰が好き好んであんなのと!
私はあんなのと添い遂げるなんて絶対嫌なんです、だから逃げてるんです!!」
「ふぅん。じゃあ逃げてる途中であの祠に閉じ込められたのか。それはそれでツイてないな」
「…厳密に言うと違いますけど、そうとも言います」

それ以上はそのことに触れられたくないのか明確な説明を避けて口を噤んだ雫に、
冬耶は無理に話を聞き出そうとするのをやめた。
さり気ない風を装って話題の軌道修正を図る。
祠の件に纏わる話はどこまで本当のことなのかわからないとはいえ、雫に会う前から知っていたことだ。
矜持の高い雫にとっては、あまりほじくり返されたくない過去だろうし、
冬耶自身にも改めて聞きたいと思うほどの興味は今はまだなかった。

「でもまさかお前に許婚がいるなんてなぁ。予想外というか、俄かには信じられないような話だな」
「お祖父様とお祖母様が決めたことだから一族の総意も同然なんです。
でも私は嫌なんです。私の意思じゃない」
「…ちょっと待て。たかだかお前の祖父さんと祖母さんが決めたってだけで、
何で一族の総意なんて大袈裟な話になるんだ。
祖父さんの権威が強いっていうのは、俺達の世の中でもまかり通ってることだが…
…少し大袈裟すぎるんじゃないか?」
「大袈裟なんかじゃありません。私のお祖父様は人間が言うところの稲荷神ですよ?
九尾の一族郎党全てにとって遣えるべき主人なんです」

だからお祖父様の言うことは絶対なんです、と、こともなげに話す雫に冬耶は驚きのあまり愕然とした。
数々驚かされた今日の話の中で、群を抜いて驚愕させられる内容だ。
雫の祖父は稲荷神。
稲荷神は五穀豊穣や商売繁盛その他諸々を司る神だ。
人間にとってはとても身近で、けれど信仰の厚い神でもある。
そんな、まがりなりにも神を祖父に持つということは、雫は実は相当のお嬢様というか何というか
血筋的にはかなり高貴なのではないだろうか。
ただの尻尾の多い狐から神様の孫へと位が上がった雫の前では、冬耶こそただの人間だ。
そんな普通の人間である冬耶からしてみれば、ランクアップした今の雫から崇め奉れと言われれば
無条件で従わなくてはならなさそうな身の上であることに間違いはない。
そのことに思い至り、冗談じゃないと冬耶は思わず雫から顔を逸らす。
同時に、雫の普段の高飛車加減と無駄な矜持の高さはここから来るものだったのかと大いに納得も出来た。
目を背けたい事実から思わず頭を抱えている冬耶を見て、
相変わらず状況を読めない雫は不思議そうに冬耶を見つめた。

「冬耶?どうしたんですか?」

変なの、と呟く雫を横目で見やり、
能天気な雫を前に冬耶は思わず漏れてしまう溜め息を抑えられなかった。
そんな冬耶の様子を見て、雫は相変わらず不思議そうな表情を浮かべ、意味もなくぴくぴくと耳を揺らす。

「…ちなみに、お前の祖母さんは?ただの九尾狐のうちの一匹なのか?」
「お祖母様は私達九尾一族の長です」

偉いです、とケロッとした表情で語る雫を見て、冬耶は再度うなだれる。
祖父は神で祖母は一族の長ともなれば、それこそ雫は生粋のお嬢様だ。
純血の九尾狐というわけではないものの、血筋の上では尊すぎるほど尊い。

「…お前、実は凄い奴だったんだな」
「?」

小首を傾げて呑気にぱたぱたと尻尾を振っている雫に、
冬耶の複雑極まりない心情は微塵も理解出来ないらしかった。
冬耶も一つ頭を振り、まぁいいかと溜め息を吐いた。
出自がどうあれ、雫の何かが今更変わるというわけではないのだから、色々とごちゃごちゃ考えても仕方がない。
そう考え直そうとした時、ふと冬耶の脳裏に一つの疑問と言えばいいのか興味と言えばいいのか、
兎に角そういった類のものが湧き上がった。

「なぁ雫。となると、お前の許婚も相応の相手ってことなのか?」

神と長の孫という血筋正しい雫に相応しい相手とはどのような人(狐?)物なのだろうか、と。
純粋に興味があった。
しかし、これには雫が思い切り苦い表情をする。
折角の綺麗な容貌を複雑な心境を表すかのように顰め、
ぷいっと横を向いたかと思えば、まるで子供がするように頬を膨らませた。
ぷくっと膨らませた頬を一旦元に戻してから、雫は嫌そうに口を開く。

「…人間が言うところの従兄弟というヤツです。
母の兄の子供で、私と同じ稲荷神のお祖父様と長のお祖母様の孫なの」
「従兄弟?!……あぁそうか、狐に近親婚なんて概念はないのか、そうか…」
「私達にとって兄弟は兄弟ですけど、従兄弟なんて他人も同然です」
「まぁ、そうなんだろうな。狐なんだから兄弟だってごろごろいそうだし」

ごろごろ呼ばわりされ、雫は再びムッとして頬を膨らませた。
私に兄弟はいません、と冬耶に反論してくる。
軽口がすぎたと苦笑して謝りながら、冬耶は雫に許婚についての話を続けるよう促した。
しぶしぶ雫も宥められることを受け入れ、ぽつりぽつりと語りにくそうに口を開いた。

「なんていうか、その…面倒くさいっていうか…」
「結婚がか?それとも許婚が?」
「結婚は発情期が来れば否が応でもしなきゃいけないから仕方ないと思ってますけど、
相手がどうしても嫌なんです」
「あー…うん、発情期な。狐だもんな、そりゃそうか。…にしても、そこまでお前に嫌われてる相手も凄いな」

一体何をされたんだ、と聞かれ、雫は困ったように眉根を寄せて顰めっ面を作った。
ふさふさと尻尾を振って間を稼いでいる。
しかし、冬耶が話題を変えてくれないと悟ると、雫は諦めたように冬耶からの問いに答え始めた。

「…別に何かされたってわけじゃないんですよ?
ただ、物凄く煩わしいっていうか、重いっていうか…兎に角面倒くさいんです!大っ嫌い!」
「つまりアレか、追いかけられるのが苦手なんだな、お前は」

こくこく、と雫は勢い良く頷いた。

「でもなぁ、男ってのは総じて逃げられると追いかけたくなるもんだからなぁ」
「それだけじゃありません。性格もネチっこくて嫉妬深くて変に自信家で、
その上自分大好きって最悪じゃありませんか?!私は耐えられないんですよ、そんなの!」

身を乗り出すようにして訴えてくる雫に圧倒されながら、冬耶も下手に雫を宥めようとはしなかった。
今の話で雫がその許婚を毛嫌いする理由にようやく納得がいった。
粘着質で嫉妬深くて、自信家はまだ良いとしても、
過度な自己愛には雫でなくとも正常な神経の女性なら辟易してしまうだろう。
雫の話を聞く限りではあるが、同じ男から見てもどうかと思う。
そんな相手から熱烈に言い寄られるとなれば、逃げたくなってしまうのも道理だ。

「なるほどな。そんな相手なら、逃げたくもなるかもな。俺がお前の立場でも逃げる」
「でしょう?!冬耶のクセに今日は凄く物分かりがいいですね!」
「ちょ、こら…っ、おわッ!!」
「ひゃっ!」

冬耶の襟首を掴んで更に身を乗り出そうとした雫は、
勢い余って冬耶を道連れにする形で諸共に倒れ込んだ。
雫に押し倒され、強かに後頭部を畳にぶつけた冬耶は、
ぶつけた箇所をさすりながら身体を起こそうと試みる。
しかし、身体の上に倒れ込んだ雫が動こうとしないために身動きがとれない。
俯いたまま胸部から腹部にかけてぴったりとくっついている雫に視線をやる。

「おい雫、いい加減離れ」
「…朝露の所為で、私の大事なものはいつも遠くにいっちゃうんです。だから、大っ嫌い」

先程までとは打って変わり、しょんぼり…というより、
泣く一歩手前といえるほど弱々しい声を出す雫に、どうしたものかと頭を掻くしかない。
今まで怪我を消毒してやった時くらいしか雫が泣くという場面に遭遇したことがない。
しかも冬耶自身が面白がって雫を泣かせにかかるのが常なので、
自分が原因でなく泣かれると変に動揺してしまう。

「雫、こら泣くな」
「泣いてなんかいません。ただ、話したら色々思い出して憂鬱になっただけです…」

そうは言いつつも、雫は顔を上げようとしない。
冬耶の胸に顔を埋めて、着物をしっかり握りしめたまま動かない。
しょぼんと伏せられた狐の耳が、一層哀愁を誘った。
慰めてくれと言わんばかりの雫の頭部に誘われるまま、冬耶は雫の頭にぽんと手を乗せる。

「朝露、な。確か初めてお前と会った時、俺のことそう呼んだよな。人違いして。
そいつがお前の許婚だったのか」

もぞもぞ身動ぎした雫は、冬耶の言葉に小さく頷いた。

「…なんだか、凄く煩わしくて重たいんです。
朝露もですけど、一族とか決まりとか沢山のことが重たく感じるんです。
…お祖父様とお祖母様のことだって…」

そこまで言って、雫はハッとしたように口を閉ざした。
まるで口にしてはいけないことを零してしまったとばかりに、気まずそうに俯き続ける。
そういった考えを持ってしまっていること自体が九尾狐の一族である以上罪深いことなのだと自覚している分、
安易にその先を口にすることが出来なかった。
そんな雫の気持ちを汲んでか知らずか、冬耶は雫の口から続きを聞き出そうと、やんわりと先を促す。

「どうした。続きは?言いたいなら言っちまえ。
俺は狐の一族じゃないからな、何を聞いてもお前を責めたりなんてしねぇよ」

無理に溜め込む必要はない、と言外に含んでそう言われ、雫は驚いたように顔を上げた。
確かに泣いてはいなかったようだが、妙に眸が潤んでいるのは気のせいではないだろう。

「ほら、聞いてやるから言ってみろ」

ぽんぽんと頭を撫でられ、雫は再び下を向く。
しかし、その頬はうっすら朱を帯びていた。

「雫?どうし…ぐはっ!」

突然の雫の変化を心配して、雫の顔を覗き込もうとした瞬間、
冬耶の腹部に雫の頭突きが綺麗に決まる。
本人的には照れ隠しのつもりだったが、やられた側からすると堪ったものではない。

「っ、雫!!」
「私は!」

顔を伏せたままで一際強くしがみついてくる雫に一発ガツンと言ってやるべく声を張り上げる。
が、冬耶の説教が始まるのを遮るように、雫も声を高めた。

「…私は、お祖父様のこともお祖母様のことも、凄く尊敬してます。
お祖父様とお祖母様の孫だってことも、凄く誇りに思ってます」

一変して、雫は風船が萎んだように小さな声を紡ぎ出す。
冬耶も頭突きへの不満は一旦脇に置き、雫の話に耳を傾けてやることにした。

「……でも、たまに、本当にたまにですけど、自分の生まれが嫌になる。
どうして嫌いな相手と番にならなくちゃいけないのかとか、
どうして逃げ回らなくちゃいけないのかとか、色々考えちゃうんです」

冬耶の着物に顔を押しつけている所為でもごもご喋る雫の声は、ただでさえ小さいので得てして聞き取りづらい。
それでも、耳をそばだてるようにして聞いてやれば、雫の話す内容は冬耶にも痛いほど理解出来るものだった。
自分の血筋や家族、一族、家、そういったものに不満はない。
それどころか相応に誇りだって持っている。
しかし、それらが時に重石のように肩にのしかかってくる。
足枷のように個人の意思や自由を奪っていく。
その得も言われぬ感覚と感情は、冬耶にも身に覚えのあるものだ。
望まぬ許婚という足枷のある雫とは、また違う形の足枷が冬耶にも存在する。
雫の複雑な気持ちが理解出来るあまりに冬耶は苦い表情を浮かべるが、
幸いそれは顔を伏せている雫には見られずにすんだ。
出自の違いこそあれ、まさか自分と雫が似たような境遇にあったとは思いも寄らなかった。

まるで自分を慰めようとしているような錯覚を覚えて一瞬躊躇ったものの、
気を取り直して、冬耶はよしよしと雫の頭を撫で回す。
その撫で方が妙に優しくて、雫は心地良さそうに身動ぎしながら、のそのそ顔を上げた。
冬耶の真意を図るように雫の濃い琥珀の瞳が冬耶を見つめる。
雫の視線を受けて冬耶も淡く笑みを浮かべる。

「…あぁ、そうだな。生まれは自分じゃどうすることも出来ないから、余計に考えちまうんだよな。
…いいさ、お前の気が済むまで逃げ回ればいい。俺と一緒に来ればいい。
お前が飽きるまで付き合ってやるよ」
「……」

いつものように人を小馬鹿にしたような不敵なものでなく、
少し困ったように表情を崩して微笑んでくれる冬耶と、
冬耶がかけてくれた言葉に思わず堪えていた涙が零れそうになる。
同時に普段見ることのない冬耶の表情に見入ってしまっていたことに気付いて、
そしてそんな自分に戸惑って、雫は視線を彷徨わせた。
頭を撫でていた冬耶の大きな手がするりと降りてきて、
まるで猫にするように頬から首筋を撫でられ、それすら不快ではないと思える自分に自分が動揺する。

「──…やっぱり、今日の冬耶は変です」

優しい冬耶は冬耶らしくない。
だから自分まで調子を崩されると、雫は赤くなった顔を隠すように冬耶から顔を逸らすのだった…──


*************************************************************************************
【あとがき】
前編→後編に至るまでの間にスランプ突入しました…。
とりあえず書き上げたものの、展開が急すぎるような気がします。
一先ず雫が引き摺っているものの6割は表に出てきた感じです。
間接的に冬耶の抱えている問題も2割くらい垣間見えてきたかなといったところです。
3話後編の段階で、ちょっとだけ雫→冬耶な雰囲気になりました。
冬耶の方はまだ手のかかる子供or動物と思ってる節が強いです。前ほどではないですが。
4話ではシリアス色が濃い目になるかと思われます、気合入れて書きます。
← Back / Top / Next →