安らぎの檻 朽ち逝くとき−重たい足枷*前編−


溶けてしまいそうに暑かった夏も終わりを告げ、秋晴れの空が爽やかに広がったある日。
窓際にもたれ掛かり、そよそよとそよいでくる秋風を受けながら、
冬耶はこれまでに書き記してきた手記を読み返していた。
手記と言っても、日記程度の内容しか記してはいないが、それでも毎日書き溜めてきたものだ。
こうやって改めて読み直してみると、家を出る前と出た後に明確な差がある。
それも、雫と一緒に旅することになってから雫の名が出ない日が一日たりともなかった事実に、
手記を書いた張本人たる冬耶自身が驚きを隠せなかった。

「…雫のことばっかりだな」

思わず独り言が漏れる。
手記の内容は、もはや雫を躾る育児日記の様相を呈していた。
その躾の甲斐あってか、最近の雫は前ほど冬耶の手を煩わせることはなくなった。
我が儘で人間嫌いで着付けが出来ないのは相変わらずだが、
ふらふら〜っと出掛けて行っても帰巣本能よろしく必ず冬耶の元へ戻ってくるようになった。
以前は一度手を離してしまうと、脱兎のごとく飛び出しては、
飛び出していったきり戻ってこないような危うさがあった。
今はその危うさもない。
事実、今日も雫はお気に入りの場所を見つけたとかで勝手に出掛けてしまっているが、
不思議とこのまま戻ってこないのではないかといったような不安は一切沸き上がってこない。
信用や信頼といったものにも似た、一種の確信のようなその気持ちは、
雫が冬耶の側にいるのが当たり前のことになっているからだろうか。

そんなことを考えながら、冬耶はパラパラと雫に会うより以前に綴った頁を捲る。
何気なく開いたその頁に、過去の自分は何を書いたんだったかと目を走らせた。
そして、とある名前が目に留まった刹那、冬耶の右目が懐かしそうに細められた。
冬耶の目に映ったのは実の弟と、自分達兄弟にとっては幼馴染ともいえる少女の二人の名前。
家を出てまだ一年と経っていないのに、ただただ懐かしい気持ちだけが膨らむ。
冬耶は二人の名前を愛しげに指先でなぞった。
元気にしているだろうか、という思いが自然に脳裏を掠める。

「冬耶、冬耶」

懐かしさに浸っていると、冬耶を呼ぶ雫の声が響いてきた。
どうやら、お気に入りの場所から帰ってきたらしい。
カラリと軽やかに障子戸を開けて、雫が室内に入ってきた。

「冬耶、ただいま」
「あぁ、おかえり」

手記から視線を逸らさないまま、返事だけを返してくる冬耶に、
雫も不思議そうに冬耶の側に寄ってくる。

「冬耶、何見てるんですか?」
「日記だよ、俺のな」

肩越しに覗き込んできた雫に、やはり手記から視線を逸らさぬまま冬耶は答える。
機嫌が良さそうに手記を眺める冬耶の視線を追って、雫も冬耶の手記に視線を落とした。

「それはそうと、お前今日はどこに…って、何だそれ?!」

ちらりと雫に視線を移した瞬間、視界に入った赤い物体に冬耶は驚いて声を上げた。
何故冬耶が驚いているのか理解出来ないでいる雫は、不思議そうに小首を傾げている。
雫の腕には真っ赤な曼珠沙華が抱えられていた。
一体どれだけ摘んできたのかというほど大量の花の数に、冬耶としては呆気にとられるしかない。

「綺麗でしょう?沢山あったから沢山摘んできました」

得意満面に摘んできた曼珠沙華の一輪を差し出してきた雫の指を見て、
冬耶は更にギョッとしたといった表情を浮かべた。
花ではなく雫の腕を掴み、自分の方へ引っ張り寄せる。

「痛っ!いきなり何ですか?!」
「何ですか、じゃないだろう!こんなに手荒らせて、何やってんだお前!」

冬耶から頭ごなしに叱りつけられ、そこで初めて気付いたように雫は自分の手に視線を落とした。
途端、雫も驚いたように目を見張る。

「…冬耶、私の手が変です…」
「…とことん呑気な奴だな。その花はな、毒があるんだよ。
素手で掴めば手が荒れて当然だ。薬塗ってやるから、手洗ってこい」
「はぁい」

素直に返事をした雫は、花を置いて井戸の方へ駆けていった。
その間に冬耶は、荷物から最近では専ら雫用となってしまった塗り薬を取り出す。
世話の焼ける奴だと呆れていれば、ぱたぱたと足音を響かせて雫が戻ってきた。

「ほら、手見せてみろ」
「はい…」

冬耶に言われるがまま、雫も荒れてしまった手を差し出し、反省したようにうなだれている。
そんな雫に、冬耶は薬を塗ってやりながら説教も忘れず窘めにかかる。

「本当に困った奴だな、お前は。大体、その花は一般的に縁起が悪い花なんだよ」
「縁起が悪い?何でですか?こんなに綺麗なのに…」
「この花は彼岸花とか曼珠沙華って名前の他に、死人花とか捨て子花とか幽霊花とも呼ばれてる。
な?不吉な感じがするだろう?」
「…そんなの人間が勝手に呼んでるだけじゃないですか。
人間にはこの花の美しさが理解出来ないんですか?やっぱり人間は愚かですね」

ムスッとして、一本取り上げた花の花弁を指先でいじりだした雫を見て、
冬耶も呆れたように溜め息を吐いた。
だが、ふとあることに思い至り、ああと納得する。

「そういえば、曼珠沙華は狐花とも呼ばれてたな。お前が妙にその花を気に入ったのも道理か」

狐だもんな、と言いながら、さり気なく雫の手から花を没収する。
いくらかぶれてしまっている手に薬を塗ってやっても、
雫自身が何度も花を触っては意味がない。
治るものも治らない。

「あっ、やだ、何するんですかっ!」
「何するも何も、お前が反省もなくまた花を触るからだろうが。没収だ、没収!」
「冬耶の意地悪…!」
「意地悪とは何だ、心配してやってんのに」

冬耶の心配してくれているという言葉に、雫はぐっと言葉を詰まらせる。
心配してくれているのなら、と、
雫は大人しく冬耶から没収された花に伸ばしていた手を引っ込めた。
今までは、心配されることが押し付けがましくて煩わしかったが、
実際に手を荒らせてしまった上で心配してもらえるのに悪い気はしなかった。

「良い子だ」

大人しくなった雫の頭を、上機嫌にわしわし撫で回してくる冬耶に
雫は噛みついてやろうかと顔を上げる。
が、上機嫌とはいえ、いつもより優しい表情をしている冬耶を見て、
雫の方が逆に躊躇ってしまった。

「…冬耶、何か変です」
「何がだ?」
「冬耶、いつもより優しい顔してます。変」
「…お前、失礼な奴だな」
「何でそんなに優しそうな顔してるんですか?いつも意地悪な顔してるのに。
何か楽しいことでもあったんですか?」
「あー…楽しいことってわけでもないんだが…」

興味津々といった風に問いかけてくる雫に、冬耶もどう説明したものかと困ったように頭を掻く。
雫が期待しているような楽しいことは一切ないのだが、
雫がその琥珀の瞳をキラキラと輝かせていることから、
あわよくば自分も冬耶がやったと思しき楽しいことを体験してみたいと考えているらしいことが容易に見て取れた。
そんな雫を見て、冬耶も諦めたように一つ溜め息を吐いた。

「言っておくが、本当に楽しいことなんて何もないんだからな。俺はこれを読み返してただけだ」
「これって、さっき言ってた日記ですか?
じゃあ冬耶は自分の日記見てニヤニヤしてたんですか?やっぱり変なの」

冬耶から受け取った、その手記をパラパラと捲りながら雫は思ったことを率直に口に出す。
冬耶が苦い顔をしているのにも気付かず、そのまま頁を捲り続ける。

「…春近、薫?って誰ですか?」

何気なく頁に書いてあった名前を読み上げた雫を、冬耶は唖然として見やった。
そして慌てて雫の手から手記を取り上げる。
まさか雫が字を読めるとは思っていなかったために、完全に油断していた。
人間の使う文字など読めないと思っていたからこそ手記を見せたが、
雫が文字を読めると知っていれば絶対に見せたりはしなかった。
恥ずかしさに顔も赤くなるというものだ。
そんな冬耶の気持ちも知らず、いきなり読んでいた手記を取り上げられた雫は
「あー…」と呑気且つ残念そうに声を上げている。

「おっ、お前、字が読めるのか?!」
「ある程度でしたら読めますけど…」
「何でだ!」
「何でって…教えてもらったから…?」

問い詰めてくる冬耶のあまりの勢いに気圧され、
流石の雫も面食らったようにビクビクしながら答える。
いつの間に隠すのをやめたのか、雫のふわふわの狐耳も怯えの為かぺったりと伏せられている。
だが、そこは懲りない雫のことだ。
ぱっと気を取り直して、逆に冬耶に詰め寄った。

「ねぇ、冬耶。春近と薫って誰なんですか?」

ねぇねぇ、と再び興味津々の態で擦り寄られ、今度は冬耶の方が怯むことになってしまった。
雫を避けようと体ごと顔を背けても、雫も負けじと冬耶の正面に回り込んでくる。
そんなやり取りを何度か繰り返し、とうとう冬耶が根負けしたとばかりにガックリとうなだれた。

「…本当にしょうがねぇな、お前は」
「やっと教えてくれる気になったんですね?」

にこーっと笑顔満面で待ち構えている雫に、
冬耶はこれでもかというくらい大仰に溜め息を吐いてから口を開いた。

「あー…春近っていうのは俺の弟だ」
「弟?冬耶、弟がいるんですか?」
「いるんだよ。ちっとも似てないけどな。2つ歳が離れちゃいるが、俺とは違って親孝行な奴さ」

そう言う冬耶の顔がどことなく寂しそうで、雫も何と返せばいいか判断が付かず押し黙る。
そして、話題を変えようと今度はもう一つの名前の人物について問いかけることにした。

「じゃ、じゃあ、この薫っていうのは?」

努めて明るい声で聞いてみる。
が、対する冬耶の表情はますます曇る一方だ。

「薫は俺と春近の幼馴染で…俺の許嫁だ」

そう呟いた冬耶の声には、懐かしさの他に愛しさや優しさ、切なさといったものが含まれているようで。
それは、雫が未だかつて聞いたことのない冬耶の声だった。
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