けそうぶみあわせ−第弐話−


 ──その後、頻繁に忍んで出掛けられては幾度となく玉藻様と逢瀬を重ねられた鳥羽院は、
 ついに玉藻様を御所へ召し上げると決意された。
 私はその話を院からお聞きするまで、院が忍びで出歩かれていたことも、
 そのような相手にお会いになっていたということにも全く気付かなかった。
 まったく間抜けも良いところ、情けない限りだ。

 そして院は、身分も何も無い娘をいきなり妃として召し上げるのは外聞も良くない上に
 妃となった後の玉藻様の居心地も悪いだろうからと、
 世間から見てそれなりに高い地位にある藤原某家へ玉藻様の後見をお頼みになった。
 出世欲の強い都の貴族が、治天の君である院御自らのお頼みを断るということはまずなかった。

 こうして、玉藻様は藤原某の養女として、ほんの暫くの間宮仕えをすることになった。
 これまでの生活環境と全く異なる宮中での生活は、しかし、玉藻様には何の問題もなかったらしい。
 誰からも愛される性格と言えば良いのだろうか。
 院や私の心配をよそに、玉藻様はその穏やかで聡明な性格からすぐに他の女房達とも親しんだという。
 慣れないことは親しくなった女房達が率先して教えてくれていたようだ。

 そうして玉藻様が宮中に馴染んだ頃に、
 院が宮仕えをする玉藻様を見初めたということで正式に妃に迎えられたのだった。
 それからというもの、院は玉藻様の元へと足繁く通われていた。
 それはもう毎晩のように……。



 「それから毎日のように、その狐に会いに行かれていたのですか?」
 
 涼しげに鳴く虫の声を背景に、玉藻は膝枕として自身の膝に頭を預けてきた上皇の髪をそっと撫でる。
 玉藻と出逢った場所は、元々は小さな狐に会う為に訪れていた場所だったということ。
 そして、その狐と出会った経緯。
 そういったことを、上皇は玉藻に話して聞かせていた。
 当時を思い出すように、上皇が懐かしそうに笑う。

 「結局その狐に会えたのは、通い始めて一月が経った頃だったか。会えるまでが長かった」
 「そんなに……」

 しみじみと語る上皇を前に、玉藻は嘆息した。
 上皇の言う狐とは要するに玉藻自身のことだ。
 だからこそ、そんなに毎日会いに来てくれていたとは知らずに申し訳ない気持ち半分、
 純粋に呆れた気持ち半分が入り混じった呟きになってしまった。
 玉藻の事情を知る由もない上皇は、玉藻の嘆息を呆れだけから来たものだと判断したらしい。
 照れくささからか少し拗ねたような表情を向ける。

 「私が物好きだと言いたいのだろう?私もそう思う。だが、本当に愛らしい狐だったのだぞ?
 日毎私に懐いてくれてな、私にとっての癒しになってくれた」
 「愛らしい、ですか」

 上皇の言葉に思わず玉藻は頬を赤らめた。
 上皇が愛らしいと称した狐は自分だ、褒められて嬉しくないはずがない。
 緩んでしまう顔を取り繕うように、玉藻は上皇から視線を逸らして俯いた。
 正体を隠してこの場にいる玉藻には、上皇の話を聞いて頬を染める理由など本来あってはならない。
 変に思われてはいけないのだ。
 だから手にした扇をぱらぱらと開き、使い慣れないながらも何事もない風を装って顔を隠した。
 だがしかし、上皇は玉藻の異変に気付いたようで、
 玉藻の膝に頭を預けた仰向けの状態のまま目を細めた。

 「玉藻?どうした、顔が赤いようだが気分でも……」
 「い、いえ、なんでも…!それより、お話の続きを聞かせて下さい」

 はぐらかすように微笑みながら話の続きを促す玉藻に、上皇は「そうか…?」と心配そうに問い掛けた。
 玉藻が頷き、それに後押しされるような形で上皇も再び口を開く。

 「…それから、私はその狐に名前を付けた」
 「どのようなお名前を?」

 聞かずとも、本当は良く知っている。
 名前というものを初めてもらったあの時のことは、昨日のことのように鮮やかに思い出せる。
 それでも、上皇の口から答えを聞きたくて、玉藻はにこにことしながら問うた。

 「『玉藻』という名を付けた。そなたと同じ名だ。だから、そなたと初めて会った時、そなたの名を聞いて驚いた」
 「まあ」

 何事もないように、玉藻は嬉しそうに微笑んで見せる。
 元々は、正直に名乗れば怪しまれると思い『藻女(みずくめ)』と名乗っていた。
 その上で、周囲からは外見の関係で『玉藻』と呼ばれることがあるとも伝えた。
 それだけでも出来すぎた話なのだが、上皇は素直に偶然と驚きつつも、
 『藻女』ではなく『玉藻』と呼んでくれるようになった。
 玉藻の金色と見紛うほどに美しい琥珀色の髪は、まさに『玉』の名を冠するに相応しい、と。
 そうして、宮仕えをするようになってからも『玉藻』の方の名が定着し、
 今は玉藻御前と呼ばれるようになった。

 「そういえば、そなたと出逢ったのもあの狐と会っていた場所だったな……。
 とすると、そなたにはあの狐が出逢わせてくれたのかもしれぬな」
 「…ですが宗仁様、どうしてそれほどまでに毎日その狐に会いに?政でお忙しかったでしょうに」
 「だからこそ癒されるために会いに行っていた。御所にいても気が重くなるだけだからな」
 「御所ではお気がお休まりになりませんか?」

 気遣うように、玉藻が声をかける。
 譲位したとはいえ、上皇は今は亡き白河法皇が敷いた院政を引き継いでいる身だ。
 一身に国の政を担うその重圧は、気儘な狐である玉藻には想像だに出来ないことだった。
 だからこそ、少しでも多く上皇のことを知り、少しでも役に立ちたいと思うのだが。
 気位の高い貴人・役人を相手にしながら政務に励むのは、
 それは息が詰まるだろうと、ただただ玉藻は納得する。

 「ああ、そうか。そなたは知らなかったな」
 「え?」
 「どこから話すべきか……。そなたは今の帝は知っているな?」
 「え、ええと、宗仁様と待賢門院様の御子である崇徳帝が皇位に就かれていると記憶していますが……」

 突然何を言い出すのかと、玉藻は驚いて目を瞠る。
 確かに教養はないも同然だが、動乱の世を生きる妖狐として時代の移り変わりには敏い。
 その上で宮仕えもしたのだから、宮中での役職や人の世の仕組み、
 権力者の名など、ある程度の知識は得ていた。
 なので、上皇から馬鹿にされたのかと一瞬悲しく思ったものの、どうやらそれは違うらしい。
 上皇はひとつ頷くと、翳のある微笑を浮かべた。
 哀しげで辛そうな上皇の微笑みに、何故か胸が掻き毟られるような心地になった。
 それに合わせて玉藻の表情までもが曇る。
 不安げに揺れる玉藻の濃い琥珀の瞳を自身の双眸に捉えた上皇は、苦笑を深めて目を閉じた。
 「ただ」と、ゆっくり続きを語り始める。

 「……一つだけ間違いがあるとすれば、崇徳帝は私の子ではないということだな。
 中宮の子であることに間違いはないが」
 「今上帝が宗仁様の御子ではない……?」
 「ああ。あれは私にとって…そうだな、叔父子とでも言うべきか」
 「おじ、こ?」

 ぽとりと手にしていた扇を取り落とした。
 上皇の言う「叔父子」の意味を察し、そのあまりの常軌を逸する行いに思考がついていかない。
 言葉が続かず、玉藻は困惑した表情のまま膝の上で目を瞑る上皇の顔を見下ろした。
 玉藻が沈黙したことで、上皇はとつとつと語り出す。

 「あれは私の祖父である白河法皇と中宮との間に出来た子だ。
 だから私にとって崇徳帝は子であり叔父でもある。なかなかややこしいだろう?」

 そう問い掛けてきた上皇の口調は至って静かで。
 普通ならば憤って当然の内容だというのに、熱くなるでもなく、
 憎々しげにぶちまけるでもなく、ただ淡々と語る姿がいっそ痛ましく目に映った。
 感情の起伏さえ無くなるほどに、どれほど深く傷付き打ちのめされたことだろう。
 ここまで手酷い裏切り、そうそう耐えられるものではない。
 上皇の胸の内を思い、玉藻は益々言葉を詰まらせる。
 言葉が出ない代わりに、どんどん眸に涙が溜まってきて、玉藻は何度も目尻を拭った。
 それに気付いた上皇が、玉藻の顔を見上げて困ったように、けれど柔らかく微笑んだ。
 上皇の指先が、涙で濡れた玉藻の目尻にそっと触れる。

 「…玉藻、何故そなたが泣く?」
 「申し訳、ございません…。宗仁様がどれほどお辛かっただろうと考えたら、勝手に…」
 「まぁ、確かに辛くはあったが。ただ、今となっては然程気にしていないよ。
 今ではそなたがいるからな。そなたがいてくれれば、他のことなどどうでも良い」

 穏やかな声音で語る上皇の言葉は、本心から来るものだろうと察するには十分な重さがあった。
 他の何かに執着するのをやめた代わりに、玉藻こそを唯一の拠り所としている。
 それが伝わってきて、後から後から込み上げてきていた玉藻の涙もようやっと治まった。

 「私は祖父の言いなりだったからな。
 だがその祖父もいなくなった今、中宮にも顕仁にも遠慮する必要はなくなった」

 その分、政に追われる羽目にはなったがな、と言い置いて、上皇は玉藻の目尻から頬に手を移す。
 するりと玉藻の片頬を撫でれば、玉藻もそれに応えるように頬に置かれた上皇の手を取って、
 猫のように頬擦りする。
 そんな玉藻の仕草に、上皇は慈しむように微笑んだ。

 「…だから、そなたは初めて私の意志で迎え入れた妃でもある。
 誰に指図されたわけでもない。私が私の為に、自分で決めた」
 「宗仁様……」
 「そなたと出逢う前は狐が私の癒しになってくれていたが、
 そなたと出逢ってからは、そなたが私の癒しになってくれている。だからもう忍びで出歩く必要もなくなった。
 以前は少しでも御所から離れていたかったものだが、今は十分ここでも安らげる」
 「少しでも宗仁様のお役に立てているのでしたら、それ以上の幸せはありません。
 私はずっと貴方様の傍にいたいのです」

 膝の上に広がる上皇の射干玉の髪に触れながら、玉藻は本心と懇願を口にした。
 これからも、何かしら、何でも良いから上皇の役に立ちたい。
 ずっと傍にいさせて下さい、と。
 その言葉を受けて、上皇は勿論だとばかりに頷いて見せた。

 「ああ、ずっと私の傍にいてくれ。
 その為に私はそなたを妃に迎えたのだから、傍にいてくれぬのなら意味がない。だろう?」

 玉藻の切実な気持ちを知ってか知らずか、上皇からの答えは玉藻が最も欲しがっていた言葉そのもので。
 それも、変な気遣いなどは一切ない真っ直ぐな上皇の言葉に、
 玉藻の表情にも自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
 上皇の問い掛けに素直に、そして深く頷いた。
 憂いの消えた玉藻の表情を見て、上皇も満足そうに微笑み、眠いのかそのまま目を閉じる。
 癒されると言ってくれた言葉通りに、安心して身を預けてくれる上皇の髪を撫でるように手櫛で梳きながら、
 玉藻は既に睡魔の虜になりかけている上皇に、独り言のようにそっと語りかけた。

 「……ねぇ、宗仁様…」
 「……ん、なんだ…?」

 半ば夢現の状態で、上皇は玉藻の呼び掛けに応える。
 絶えず優しく髪を撫でてくる玉藻の手のあたたかさと、
 まるで子守唄のように心地よく響く玉藻の声は、容赦なく上皇の意識を眠りの世界へと誘っていく。
 けれど、玉藻の話を最後まで聞いていたくて、上皇は内心必死に襲い来る眠気と闘っていた。
 そんな上皇の内情も知らず、玉藻はその鈴を転がしたような声で話を続ける。

 「きっと、その狐も宗仁様と一緒にいたかったんだと思います。
 だから狐も宗仁様に会いに来た。狐は宗仁様のことが好きで好きで堪らなかったんですよ」
 「…そうか。…あの狐は、息災だろうか……」

 そう問い掛けた上皇は、玉藻からの返答を待たぬまま眠ってしまったらしい。
 語尾に小さく寝息が続いた。
 小さく身動いだ上皇を見詰め、ふと微笑む。
 上皇が目を覚まさないことを確かめてから、玉藻は先程の上皇の問いへと答えた。

 「あの時の狐はとても元気ですよ。貴方の傍にいることが出来て、貴方に触れられて、
 毎日がとても幸せです、宗仁様」

 問い掛けた本人にも、誰に聞かれることもなかった玉藻の答えは、
 涼しげに鳴く虫の声に紛れて闇夜へと消えていった。

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