けそうぶみあわせ−第壱話−


 ──その日、私は息抜きをしたいと仰せになる院に付き従って市井の外れまで足を伸ばしていた。


 「我が君、我が君!いずこへおいでです?!我が君!!」

 安倍泰成は自らの主を探すべく声を張り上げる。
 政や御所での生活から息抜きをする為という理由で、
 泰成の主である鳥羽上皇は忍びで市井まで出向いていた。
 その共として泰成も市井に赴いたが、賑わう市を離れ、
 外れに至ったところで主とはぐれてしまったのだった。
 治天の君ともあろう鳥羽上皇が、このような一介の市中を遊び歩いていたと知れれば、
 それを知った町人も御所の重臣達も大騒ぎとなるだろう。
 それを思えばこそ、早く主を見つけ出さなければと泰成は躍起になって声を荒げた。
 そんな必死の形相を浮かべて駆けずり回る泰成の姿を木陰から見守る影が一つ。

 「…泰成の奴、あんなに声を張り上げては忍びで出歩いている意味がないではないか」

 大木に背を預けるようにもたれ掛かって、肩越しに泰成の慌てふためいている様を眺めていたのは
 泰成の探し人である鳥羽上皇その人だった。
 上皇は泰成から自らの前方へと視線を戻した。
 それから少し上方へと目をやる。
 その視線の先には真っ青に澄み渡った昊が一面に広がっていた。
 目を閉じ、一つ大きく息を吸っては吐く。
 清々しい空気に囀ずる小鳥の声が耳に心地良い。
 木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日があたたかい。
 萌える緑が鮮やかに目に映る。
 何もかもが心地良い。
 頬を優しく撫でていく風に、自然と穏やかな気持ちになる。
 視界に映る木々や草花はどれも御所内にあるものと、さほど変わりはないはずなのに、
 御所の中ではないというだけでこんなにも鮮やかに美しく感じるものなのか。
 呼吸も楽に出来る気がする。

 「──…良いところだな」

 気に入りの場所が出来た、そう思った時、少し離れた草むらがガサリと小さく揺れた。
 目を凝らすと、一羽の蝶がひらひらと優雅に羽ばたいている。
 次の瞬間、再び揺れた草むらから小さな影が飛び出した。
 蝶に向かって飛び掛かっていったその影の正体に、上皇は思わず目を瞠る。

 「狐、か…?」

 小さな体躯の狐が蝶を追いかけている。
 日の光を一身に浴びて、金色と見紛う程に美しく輝く琥珀の毛皮を風に靡かせて、
 一心不乱に蝶を追うその小狐はどうやら上皇の存在には気付いていないらしい。
 まるで蝶からからかわれるようにして、あしらわれているように見えるが、
 懲りずにころころとその場を転がりながら前肢で空を掻いて蝶を捕まえようとしている。
 その間抜けさが小狐の見た目と相俟って、一層愛らしい。

 「蝶と戯れる狐とは面白い。だが、あれではどちらが遊ばれているのかわからんな」

 狐の様子を可笑しげに観察するにつれ、我知らぬうちに見入ってしまっていたらしい。
 上皇は、蝶を追い掛け少しずつ遠ざかっていく狐の後を追うように、その場から一歩踏み出した。
 しかし、小枝を踏み締めてしまったのか、パキンと乾いた音が思いの外大きく響き渡ってしまった。

 「っ、しま…っ!」

 しまった、と思った時には既に遅く、振り返った狐と目があった瞬間、
 狐は驚いた為か、その真ん丸な瞳を更に大きく見開いて一目散に駆け出した。
 草むらに駆け込んで一定の距離を保ち、身を低くしながら上皇に向かって威嚇の声を上げている。

 「ああ、すまない、驚かせてしまったな…」

 人間を相手にするように、申し訳ない気持ちで狐に語りかける。
 狐は少しばかり威嚇の声を緩め、それでも隙を見せるまいと注意深く上皇を見詰めて視線を離さない。
 そんな狐を前に、上皇はそっと狐の方へ一歩を踏み出した。
 びくっと反応した狐は、しかし逃げ出すことはなく、更に身を低くして警戒を続けたまま
 ジッと上皇の出方を窺っている。
 更に数歩狐の側に近寄った上皇は、狐の様子から、
 狐が逃げ出さないギリギリの距離を察したところで立ち止まった。
 その場に片膝をつき、狐に向かって腕を差し出す。

 「私はそなたに危害を加えるつもりはないよ。さぁ、こちらへおいで」

 やはり人に対するように声をかけながら、チッチッと指先を揺らして呼んでみる。
 狐に人の言葉などわからないだろうと思われたが、上皇の言葉が通じたのか、
 それとも単に好奇心には敵わなかったのか、狐はそろそろと警戒しながらも
 上皇に一歩一歩歩み寄っていく。
 それに安堵した上皇の表情も自然と緩んだ。

 「良い子だ」

 伸ばした指先に狐の鼻先が触れるまで、後ほんの少し。
 上皇の指先が狐の柔らかそうな毛皮に触れたと思われたその時、
 間近で葉を掻き分ける音が一際大きく響き渡った。

 「院!」

 やや遅れて、泰成の声が谺する。
 突如として草むらから現れた人影と大声に仰天したらしい狐は、今度こそ脱兎の如く逃げ出した。

 「待っ…!!」

 待ってくれ、という上皇の願いもむなしく、狐は振り返ることなく一目散に駆け、
 そのまま木々の向こうへと姿を消してしまった。
 狐に逃げられ項垂れる上皇をよそに、上皇の姿を見付けたことで
 安堵の表情をありありと浮かべた泰成が駆け寄ってくる。

 「院、こちらにお出ででしたか。
 突然いなくなってしまわれたので、この泰成、生きた心地がしませんでした…。…院?」
 「…お前は本当に良いところで邪魔をする奴だな」
 「は?」

 じろりとした視線を向けられ、上皇の態度に泰成はただただたじろいだ。
 何故上皇からそのような態度を取られてしまうのか、全く以て心当たりがない。
 そんな、狼狽えるばかりの泰成を見て上皇は大きく溜め息を吐いた。

 「…なんでもない。それより、外では私が上皇だとわかるような言動は控えろと言ってあるだろう。
 それでは忍びにならない」
 「し、失礼致しました、つい動転してしまって…我が君」

 恐縮しきりの泰成に、難しかった上皇の表情も、ふっと緩む。
 やれやれといった風に頭を振った上皇は、ふと狐が逃げていった方向を見やった。
 愛らしかった狐の姿を思い出し、愛しげに目を細める。
 そうして吹っ切るように視線を戻した上皇は泰成に向き直り、穏やかな表情で口を開いた。

 「まぁ良いさ。今日は珍しいものも見ることが出来たし、良い気分転換になった。そろそろ戻るとしよう」
 「もう、よろしいのですか?」

 帰路につくべく牛車に戻ろうと踵を返した上皇の背に向けて、泰成が心配そうに問い掛ける。
 そんな泰成を肩越しにちらりと見やった上皇は困ったように微笑み、
 そして後方の泰成から前方に視線を戻した。
 泰成からの問いに頷いて答える。

 「ああ。だが、次に抜け出す時はお前なしで行くことにしよう」
 「えっ?!」
 「もう一度会いたい者が出来たんだ。まぁ許せ」

 泰成を置いて、すたすたと歩を進める上皇は広げた扇の陰で意味深に微笑んだ。
 その笑み混じりな声で紡がれた、更に意味深な言葉に泰成の思考も一瞬停止する。
 予想だにしなかった上皇の言葉に、その意味を理解するまで暫くの時間を要した。

 「もう一度会いたい者って…。いえ、ですがそういうわけには参りません!
 来るなと言われても、この泰成、どこまでもお供致します!!」

 仮令野暮だと蔑まれても院をお一人にするわけには参りません、と生真面目に熱弁をふるう
 忠実な臣下を、再び肩越しに見やった上皇は緩慢な動作で扇を閉じた。
 ぱちり、と扇が閉じると同時に弱りきったように目を伏せる。

 「…だからお前は邪魔者だと言うんだ…」

 上皇はこれでもかというほど、大きく溜め息を吐いた。



 ──…思えば、その時から既に院のお心は玉藻様にあったのだろう。

 私の知らぬところで既に出逢っていた院と玉藻様は、暫くの後に本当の意味での出逢いを果たした。
 宣言通りに私の目を掻い潜っては、主に狐に会うのが目的でその場所を訪れていたという院の前に
 玉藻様は現れたのだという。

 否、それまで狐の姿で院と逢瀬を重ねていた玉藻様が、人の姿を以て院の前に現れた、
 と言う方が正しいだろうか。
 勿論、人の姿で現れた玉藻様をそれまで愛でていた狐だなどとは思いもしなかった院は、
 それでも玉藻様に惹かれていった。
 
 人の姿をとった玉藻様は、それは美しく可愛らしい方だった。
 しかし、容貌が優れた女性など、院のお側には掃いて捨てるほどにいる。
 院のお心を射止めたのは、玉藻様のその聡明さと、何よりも院のことを大切に想う
 その気持ちの深さだったのだろう。
 玉藻様は院のお立場ではなく、院ご自身を愛しておられた。
 そんな玉藻様のお側が院にとって唯一の心安らぐ場所になったのは無理からぬこと、
 むしろ当然の流れだったろうと思う。
 玉藻様がお側にいるだけで、院は本当に幸せそうでいらした。
 玉藻様も院のお側で幸せそうに笑っておられた。
 
 そんなお二人を側で見守る時間が、私は本当に好きだった…──

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