安らぎの檻 朽ち逝くとき−序章・過去−


 ―…か、誰か…
 『誰だ…?』
 ―…助けて…さま……どうしてですか…?
 『誰だ、何を言ってる…?』
 ―…ゆる、さない…絶対に許さない…!

 「ッ?!」

 助けを求める声、嘆く声、憎しみに満ちた声が頭の中で反響する。
 どの声も全て根底に悲しみの色を滲ませていた。
 許さない、という言葉に弾かれるように目が覚め、飛び起きてしまった。
 我知らぬうちに夢に緊張していたのか、呼吸も荒く、嫌な汗が肌を伝っている。

 「…冬耶さん?どうかしたのかい?」

 その日、一夜を共にした女が心配そうな表情を浮かべていた。
 冬耶と呼ばれたその男は、ホッとしたように一つ息を吐くと女に笑いかけた。

 「悪い、少し変な夢を見ちまった。起こして悪かったな」
 「それは構わないけれど…。一体どんな夢を見たんだい?」
 「…見たっていうか、変な声が聞こえてな。誰か、って言葉の次には、どうしてって。
 どうして、の次は絶対に許さないって女の声が。わけわかんねぇよな」
 「おやおや、今までに泣かせた女達から怨まれてるんじゃないのかい?」

 色男は大変だねぇ、とコロコロ笑う女に冬耶も体に入った力を完全に抜く。
 そいつは怖い等と軽口を叩きながら、再び褥に寝転がった。

 「ああ、そういえば」

 恨み言で思い出したことがあると、女が声を上げる。
 早速うつらうつらと船を漕いでいたところをあっさりと邪魔される。
 なんだよ、と気乗りしない声で返事をすれば女は嬉々として語り出した。

 「怨みといえばねぇ、この先の外れにお稲荷様があるのさ。
 そこの祠に祀られてるっていう神様…まぁ勿論お稲荷様だから狐が祀られてるわけだけど…」

 女の話によれば――

 ――祠に祀られている狐は雌の狐だった。
 その昔、狐は人間の男に恋をしてしまい、
 当然ながら狐と人間が一緒になれるはずがないということから
 その狐は人間の女の姿に化けて男に近づいた。
 男は美しく化けた狐を狐とも思わず、次第に惹かれ、遂には将来を誓い合う仲になった。
 ところがある日、男は恋人が狐であることを知ってしまう。
 男は狐が恋人を殺し、恋人に成り代わっていたと考えた。
 しかし、その男はあまりにも優しすぎる人間だったために、
 いくら憎いと思っても狐を殺すことは出来なかった。
 けれど狐を許すことも出来ない男は寺の住職から渡された霊験あらたかな札を用いて、
 狐を祠に閉じ込めて封印してしまった。


 「ふぅん、在り来たりな話って気もするけどな」

 欠伸を噛み殺しながら、さして興味もなさそうに感想を述べる冬耶の反応に
 納得がいかないらしい女は―暗闇で見えないが―頬を膨らませて
 不満の色をありありと浮かべる。

 「まったくもう!折角人が教えてあげてるってのに、もっと感心するとか感動するとか、
 気の利いた反応は無いのかい?」
 「まぁ、明日祠の前を通った時には俺も女から怨み買わないようにって
 その女狐様にお願いしてみるよ」
 「呆れた…。そのお願いは今更すぎるんじゃないかい?」
 「ははっ、そうかもな。だけどまぁ道中の安全祈願ってことでな。じゃ、おやすみ」

 おやすみ、と口にしたのを最後に冬耶の意識は完全に睡魔に支配され、
 今度こそ朝まで目覚めることなく健やかに眠れたのだった。


 「とは言ったものの、あんな話が本当だとは思えないよなぁ」

 朝、目が覚めるなりさっさと旅支度を整えた冬耶は早速昨夜聞かされた狐の祠に出向いた。
 村の外れの稲荷神社には人の姿はなく、寂れた風情の中、
 妙に鮮やかな赤い鳥居だけが神々しく佇んでいる。
 鳥居を潜り、暫く進んだ先にポツンと噂の祠があった。
 祠には女から聞いた話通り、扉にそれらしい札も貼ってある。

 「…もし本当にあった話なら、その閉じ込められたっつー狐は今頃…
 ミイラか白骨死体か、どっちかだよな」

 我ながら恐ろしい考えだとは思っても、罰当たりなことだと自覚はしていても
 抑えきれない好奇心から祠の扉を開けてみたくなるのが人間の性というものだ。
 キョロキョロと周囲を見回し、誰もいないのを確認すると冬耶は札に手をかけた。
 破ってしまわないように、柄にもなく几帳面に丁寧に剥がしていく。
 年月を経て既にボロボロになっていた札は、
 ペリペリと小さく音を立てて呆気なく剥がれ落ちてしまった。
 ごくり、と喉を鳴らし、緊張の面持ちで祠の扉をそっと開ける。
 祠の中から聞こえる、かしかしかしかしっ、という音は一体何だとも思いながら扉を開ける。
 キィ…と音を立てながら扉がゆっくりと開き、目を凝らして中を見た。

 「っ!」

 瞬間、バタンッと扉を閉める。
 今、何かと目が合った。
 琥珀色で毛むくじゃらで、かしかしと呑気そうに耳の裏を掻いていた、その何か。
 開かないように必死に扉を押さえた祠の内側から、
 ガリガリと戸を引っ掻いてきている、その何か…――

 「狐ェ?!」

 背を向け、祠に寄りかかるようにして戸を押さえつけているため、
 直にガリガリ振動を肌に感じながら冬耶は祠の中で見たものを思い起こす。
 祠の中には確かに狐がいた。
 呑気な面で耳の裏を掻いていた。
 そして、一瞬しっかりと目が合った。
 くりくりっとした可愛らしい黒目が自分を見ていた。
 目が合ったことを合図に此方に飛びかかってきたため、咄嗟に扉を閉めたが、
 まるで開けろと言っているかのように耐えずガリガリと内側から扉を引っ掻き続けている。

 「出していいのか、コレ?!くっそ、開けんじゃなかった…!!」

 後悔先に立たずとはこのことだ。

 「どうする?!どうする俺…!!」

 だらだらと変な汗が流れてくるが、ガリガリと戸が削れる音は一向に止まない。
 どうしたものか。

 ――…開けて。

 瞬間、静まり返った水面にポタリと落ちた雫が波紋を広げるように、
 頭の中にはっきりと声が響いた。
 玲瓏玉の如く、澄んだ女の声。
 儚く消え入りそうな、同情を誘う声での懇願。
 間違いなく、祠から聞こえてくる。
 さっきの狐の声だろうか。
 否、狐が喋るはずがない!等と内心で自問自答しつつも、
 先程の声が耳に残って離れない。
 冬耶は背中で押さえつけるのをやめ、再度祠の戸に手をかけた。

 「…えぇい!ままよッ!!」

 扉を開け放った瞬間、祠の中からぴょーんと小柄な狐が飛び出してきた。
 咄嗟に狐の小さな体を抱き留めようとしたその時、冬耶は自分の目を疑った。
 一瞬の出来事のはずが、ゆっくり時間が流れているかのような錯覚を覚えてしまったほどに。
 飛び出してきた狐の琥珀の毛皮が、サラサラと靡く美しい髪になって視界に映る。
 簡単に抱き留められたはずの狐は、しかし抱き留めることもかなわず、
 冬耶はそのまま後ろに倒れ込んでしまった。
 狐ではなく、見知らぬ人間に押し倒されて。

 「っ、いってぇ…!」

 冬耶が視線を上げると、冬耶を押し倒してきた人間もゆっくりと顔を上げた。
 サラリと琥珀の長い髪が滑り落ちる。
 狐の代わりに冬耶に抱き留められていたのは、とても綺麗な顔をした女性だった。
 視線がぶつかった途端、その女の繊細な美しい顔はみるみる悲しげに歪んでいく。

 「…ゆる、さない…」

 ぽつりと女の口から呟きが漏れ、女の細くしなやかな指が唖然としている冬耶の首に絡み付いた。
 女の細い指にゆっくりと力が篭もっていく。

 「ッ、お前…!!」
 「許さない!朝露!!」

 女が悲痛に叫んだ途端、首を絞める力が一気に強まった。

 「くっ…!」

 朝露とは誰だ?
 間違いなく人違いだ。
 人違いで殺されるなど冗談ではない。
 冬耶は女の腕を掴み、腕を掴まれた痛みで女が一瞬怯んだ隙をついて
 転がるように体勢を入れ替えた。
 逆に女が冬耶から押し倒された形だ。

 「…っは、悪いな。押し倒されるのも悪くはないが、俺は押し倒す方が好きなんだ」

 軽く咳き込み、呼吸を整えながら冬耶は女の両手首を一纏めにして
 片手で地に押さえつけた。
 女は必死に振り解こうと抵抗しているが、やはり男の力には適わないようだ。

 「朝露、貴様…!」

 じたばたと暴れ、加えてまだ人違いに気付かないでいる目の前の女に、
 冬耶は絞め殺されかけた怒りを通り越し呆れたように溜め息を吐いた。

 「俺は朝露なんて名前じゃない。いい加減人違いだってことに気付け。
 そして暴れるな!それとも何だ、そんな格好して犯して下さいとでも言ってんのか?」
 「……朝露じゃ、ない?」

 女は全裸の自分の身体のことなど気にせず、しっかりと凝らせた瞳に映る冬耶の姿を見やった。
 彼女の双眸は驚きのあまり茫然と見開かれている。

 「おい、大丈夫か?」

 押さえつけていた腕を解放してやり、身体の上から退いてやると女ものろのろと身体を起こした。
 そして座り込んだまま周りの景色を振り仰ぐ。
 琥珀の瞳が大きく揺らいだ。

 「…ここは、どこですか?漣様は…?」
 「ここは見たままの稲荷神社だろ?俺も旅してる最中にたまたま立ち寄っただけだから良くは知らん。
 その漣様っていう奴も、悪いがわからないな」

 急に汐らしくなった女の態度に攻撃的な色は窺えないと判断した冬耶は女の問いに答えつつ、
 数少ない手荷物の中から替えとして持っていた着物を引っ張り出した。
 それを女の身体に掛けてやる。
 そのまま一糸纏わぬ姿でいられても、此方の理性が持たない。
 そもそも突然現れたこの女は何者なのだろうか。
 そして祠から飛び出してきた狐はどこに行った。
 目の前の女=狐か?
 いやそんな馬鹿な。
 過ぎった考えを打ち消して、答えを得るべく女に問いかけてみる。

 「お前誰だ、何者だ?」
 「…それは名前を知りたいということですか?
 それとも、私が人間かどうかということを聞いているのですか?」

 質問に質問で返してきた女の、先程とは違う凛とした表情に一瞬目を奪われる。
 良い女だ。
 そう思いながら、冬耶は座り込んだ女と視線を合わせるため屈み込んだ。

 「おかしなことを聞くな。そんな姿形をしておいて、人間じゃないとでも言うのか?
 人間でなければ何だ、狐か?それとも狸が化けてるのか?」
 「狸ではありません、私は狐です。下等な狸などと一緒にしないでもらいたいですね」

 ムッと不愉快そうに眉根を寄せる女を、冬耶は信じられないという目で見る。
 何を平然と不可解なことを口走っているんだ、この女は…という目だ。
 そんな冬耶の表情から考えていることを読みとったのか、
 女の眉も益々不機嫌そうに顰められていく。

 「…自分から何者かと聞いておいて、失礼な人。
 私が狐だと信じられないのですか?祠を開けた時に私の元の姿を見ているでしょうに」

 貴方の目は節穴なのですか?と問われてしまっては、もう何を反論すればいいのかわからない。
 良い女だと思った相手は狐…。
 美女、もとい女狐を目の前に、冬耶の頭の中は真っ白になったのだった…――


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【あとがき】
やっと本編をちょっと齧りました。
冬耶のキャラがまだ定まらない、特に口調が。
書いていくうちにアホな要素がある人になってしまいましたorz
途中の台詞なんてライ○カードかよ!って感じです。
(まだ名前出てませんが)雫は羞恥心とか皆無な子らしいです。
狐なので素っ裸でも大して何とも思ってないのかも。
うちのお狐様は着物までは化けられない設定です。
葉っぱがあればまた別かもしれませんが…。着物調達は冬耶の仕事です。
ちなみに雫は狸のことを下等扱いしてますが、狸は可愛いと思いますよ!
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