安らぎの檻 朽ち逝くとき−あの人の猫のつもり*前編−


 障子紙越しに朝の陽の光が差し込んでくる。
 目覚めの時間を告げるその光は明るく室内を満たし、
 光を浴びた一匹の小さな狐がパチリと目を覚ました。
 欠伸をしながら、ゆっくりと体を起こした狐は、未だ布団にくるまったままの人間の元に歩み寄った。
 クンクンと匂いを嗅ぐような仕草で鼻先を使い、人間の後頭部をつついてみる。

 …反応はない。

 ムッとした狐は、今度は人間の顔側に回り込んだ。
 布団の間から端正な顔立ちをした青年の顔が覗く。
 その青年の顔を前足でペシペシと叩くと、ひやりと冷えた肉球の影響か
 青年は眉根を寄せて嫌そうな顔をした。
 だが、一向に目を覚ます気配はない。
 余計にムッとした狐は、そのままベシベシと前足で青年の顔を叩き続けた。
 加えて、その九つもある尻尾を使い、更に叩く。
 叩いて叩いて叩きまくった。

 「はっくしゅ!!」

 ふさふさした尻尾の毛で鼻まで擽られ、青年は大きなくしゃみをした。
 ぼんやりと目を開き、寝ぼけ眼で狐を見つめる。
 狐も早く起きろと尻尾を揺らしながら青年を見つめ返した。

 「きゃんっ!!」

 すると、突然布団の中から腕が伸び、がっちりと抱え込まれた狐は一声悲鳴を上げた。
 完全に寝ぼけている青年の腕から逃れるべく、じたばたと暴れる。
 青年を爪で引っ掻こうとするも、着物が邪魔で爪が肌まで届かない。
 頭にきた狐は、青年を起こすべく最終手段に打って出た。


 「…っ、ぐ……お、重い……」

 青年――冬耶は突然ずしりと自らの体にのしかかった重みに思わず呻いた。
 次いで頬に鈍い痛みが走る。
 ここでやっと眠気が覚め、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

 「…っ!」

 目覚めの朝、真っ先に冬耶の目に映ったのは自分の身体の上に座り込んだ全裸の美女の姿。
 美女の頭には何故か獣の耳まで生えている。
 その美女がしなやかな指で自分の頬を引っ張っていた。
 先程頬に走った鈍い痛みの原因はこれか。
 納得すると同時に、身体の上にいる美女に向かって溜め息を吐いた。

 「…えらく刺激的な目覚めだな」

 視覚的にも痛覚的にも、と。

 「なかなか起きない方が悪いんです。
 もう少し起きるのが遅かったら、ひっぱたいてやろうと思ってました」

 冷めた琥珀の瞳で冬耶を見据える美女――雫は、つんけんと素っ気ない態度で答える。
 つれない態度の雫にもう一度大きな溜め息を吐いた冬耶は、前触れもなく身体を起こした。

 「きゃっ…!?」

 反動で雫が冬耶の身体から跳ね飛ばされる。
 ぺたんと床に尻餅をついた雫が抗議の目を向けてくる。

 「何するんですか、乱暴者!」
 「こんなの乱暴したうちに入るか」

 雫の抗議を軽く受け流し、そんなことより、と話を変える。
 雫の格好を一瞥し、枕元に準備してあった着物のうちの一式を雫に投げてよこした。

 「お前な、人の姿になったらちゃんと着物を着ろ!何度言わせる気だ。
 それに耳と尻尾も隠せ。誰かに見られたらどうする」
 「人間の着物は複雑で面倒です。
 それに、いきなり客の部屋に入ってくるような無礼な人はいないのでしょう?
 宿とはそういうものだと言ったのは貴方ですよ」
 「世の中には予期せぬ出来事ってのがあるものなんだよ。融通が利かない奴だな」
 「人間の世の中など、私の知ったことではありません」

 ツンと、そっぽを向く雫の高飛車で無茶苦茶な言い分は、
 共に旅をするようになったこの一ヶ月のうちに聞き慣れた。
 実は人間ではなく狐、それも神族の座に近い九尾狐の雫は、
 ことあるごとに人間を下等だと見下してくる。
 生まれの違いからして、それは仕方のないことかもしれない。
 しかし、この人間の世において雫の減らず口と行動は全く噛み合っておらず、
 説得力は皆無に等しい。
 冬耶からしてみれば世話を焼かざるを得ない、
 かなり世間ずれした捻くれた性格の女だというくらいの認識だ。

 だが、持ち前の好奇心に負け、
 更に持ち前の面倒見の良さが仇となってしまった結果のこの二人旅、
 何とかなるだろうと楽天的に考えていたが雫はなかなか手強かった。
 まず人の姿になっても着物を着ない、否、着ることが出来ない。
 帯を締めることが出来ずに、結局冬耶が手を貸すことになる。
 今回のように宿で二人きりの時だと、襦袢を羽織ることすら平気で放棄する始末だ。
 何度言っても暖簾に腕押し、全く聞く耳を持たない。
 躾のなっていない犬、もしくは子供を相手にしているような錯覚さえ覚えてくる。

 「…雫、人間…こと人間の男というのは、お前が言うように下等な存在だ」

 突然脈絡もない話を始めた冬耶を、雫はキョトンとして見つめる。
 何を今更、とも言いたげだ。
 そんな雫の視線を受けて、尚も冬耶は話を続けた。

 「だからな、そんな下等な人間の男ってのは、
 お前みたいな外見だけは綺麗に化けた女には目がないんだ。
 しかも全裸だなんて、襲って下さいって言ってるも同然なんだぞ?
 だから着物だけは絶対に着ろ」
 「人間は狐にも欲情するんですか?節操のない…」
 「狐だろうが何だろうが人間に化けてる限り狐だとは思わないだろ?
 可愛くて綺麗な女が全裸で歩いてりゃ誰だって変な気起こすに決まってる」
 「…貴方も?」
 「起こすかもな、俺も男だし」
 「人間って変な生き物ですね」

 心底不思議だというような表情を浮かべながら、雫は大人しく着物を羽織始めた。
 くるくると帯を腰に巻き付け、自力で帯を締めようと一応は努力してみる。
 雫が着物を着ることに躍起になっている間に、冬耶自身もさっさと着替えを済ませる。
 冬耶が着替え終わっても、もたもた着替えていた雫だが、諦めたように腰に巻いた帯を解いた。

 「…冬耶、帯」

 締められない、と冬耶に帯を手渡した雫に冬耶はやれやれと溜め息を吐く。

 「俺にどうしてほしいのか、ちゃんと口で言ってみろ」

 まるで子供の躾をしているような気分になってくるから不思議だ。

 「帯締めるの手伝って下さい、ぐらい言えないのか?」
 「……どうして人間なんかに…」
 「その人間なんかに帯締めてもらわなきゃ着物も満足に着付けられないだろうが」
 「それは……」

 冬耶の言葉に、雫は途端に口ごもってしまった。
 しょぼんと俯いてしまう。
 そんなつもりはなかったが、雫の表情を見ると冷たく言い過ぎたかと此方の方が焦ってしまう。

 「…雫?」
 「…めて…」
 「ん?」
 「…帯、締めて下さい…」

 常々下等だと罵っている相手にお願いするのが相当屈辱的だったのか、
 雫は悔しさのあまり涙目になっている。

 「良くできました」

 ぽんぽん、と頭を撫でてやれば、雫はフイッと横を向く。
 やれやれ、と苦笑しながら冬耶は雫の腰に帯を巻き付け始めた。

 「…貴方なんて嫌いです」
 「嫌いで結構。俺もお前が嫌いだからな」

 ギュッと帯を締めてやれば、雫は涙をいっぱいに溜めた瞳で冬耶を睨み付ける。

 「貴方みたいな眼帯助平男なんて、本当に本当に大っ嫌いです!」

 きつく睨み付けた後にそう喚くと、雫は襖障子を乱暴に開けて部屋を出て行ってしまった。
 ついつい売り言葉に買い言葉で、余計に雫の機嫌を損ねてしまったらしい。

 「…だからって眼帯は関係ないだろう」

 助平なのは、まぁ否定しないが、と左目を隠す眼帯に軽く触れながら呟く。
 雫と共に旅をするようになってからは、寝る時にも眼帯を外すことはなくなった。
 眼帯で隠したこの傷を誰かに見せることは気が引ける。
 見せられた相手も快くはないだろう。
 雫にしても、一応は女なのだから繊細な神経を持っているのであれば良くは思わないはずだ。
 加えて片目が見えなくなったことで、もう片方の目には極度な負担がかかり、
 いずれは左目だけでなく右目も視力を失うことだろう。
 その前に外の世界を、色々と沢山のものを見ておきたいと家を出た。
 恐らく実家では大騒ぎになっているだろうが、自分の人生だ、後悔はしたくない。
 一人旅をするには十分すぎる路銀を持ち出してきたおかげもあり、
 雫が旅に同行してきても大した痛手にはならない。
 雫と出逢った当初は冬耶自身高飛車で、何かと人間を馬鹿にしてくる雫のことは
 苦手だったのだが、一月も一緒に過ごし、毎日顔を合わせるていると
 不思議なことに苦手だった雫の性格にも慣れてしまった。
 今では大抵言い負かしてしまう。
 悔しくて涙目で睨みつけてくる雫を見るのが楽しくなってきているあたり、
 虐めっ子の素質は十分あるなという自覚もある。
 今日も言い負かされた雫は怒って出て行ってしまったが、そのうち帰って来るだろう。
 ただ、今日は一緒に美しいと有名な紫陽花の花でも見に行こうと思っていたのだが、
 これは明日に延期だなと諦める。
 仕方ないので、今日は宿に滞在して、のんびりと本でも読みながら寛ぐことに決めた。

 「…お?」

 取り敢えず雫が開けっ放しにしたままの戸を閉めようとしたところ、
 するりと開いた戸の隙間から猫が入ってきた。
 チリンと一つ、首に巻かれた鈴が鳴る。

 「この宿の猫だったか…?」

 確か宿には看板娘よろしく、看板猫がいたはずだ。
 宿の敷居を跨いだ途端、猫の気配がするから此処に泊まるのは嫌だと
 駄々をこねた雫の言葉を思い出す。
 冬耶にこそ姿は見えなかったが、
 宿の主人に確かめてみると三毛の看板猫がいるという話だった。
 勝手気ままに客室へ入ってくることもあるので、
 そのあたりは宿の特性ということで勘弁してくれと言うことだった。
 主人も暢気なら飼い猫も暢気なのだろう。
 三毛猫は悠々と冬耶の側に歩み寄ってくる。

 「珍しい猫だな…」

 自分に寄ってくるなんて、と思わず呟いてしまうほど珍しい出来事だ。
 冬耶は昔から何故か動物から嫌われてしまう性質なのだ。
 冬耶本人にしてみれば、動物を嫌うどころか愛でたいとすら思っているにも関わらず、だ。

 雫にしても例外ではなく、今でも目に見えてわかるほどに距離がある。
 出逢った当初に比べれば距離は縮まっているとは思うものの、
 だからこうして警戒もせず寄ってきてくれる猫はこの三毛猫が初めてだった。
 ニャーと可愛らしい声で鳴きながら冬耶の足にすり寄ってくる。
 すりすり、と冬耶の足に頬を擦り付けてくる猫の愛らしさに思わず顔も緩んでしまう。

 「何だ、お前可愛いな」

 ヒョイと抱き上げてみると、びろーんと伸びる猫の身体は雫のそれとはまた違う肌触りで
 狐の雫の身体よりもブヨブヨと柔らかい。
 雫以外で抱き上げた動物も、この猫が初めてだ。
 戸を猫が出入り出来るくらいの隙間を残して閉め、小机まで移動して、
 そこで胡座をかいて座り込む。
 膝の上に猫を置くと、猫はその場で丸くなった。
 人慣れしすぎていると思わずにはいられないほどに図々しい。
 それでも、暢気に欠伸をし、うつらうつらと船を漕いでいる姿を見ると穏やかな気分になってくる。
 猫の頭を緩く撫でながら、冬耶は小机の上に本を開いた。
 活字に目を通しながらも、チラチラと膝の上の猫にも視線をやってしまう。
 その度に可愛いな、と再確認する。

 「あいつもこのくらい可愛げがあれば言うこともないのにな」

 ついつい日頃溜め込んでいる本音まで零れてしまう。
 あいつとは言わずもがな、先程飛び出していった狐娘のことだ。
 いつ頃戻ってくるだろうかと欠伸を噛み殺しながら考える。
 猫を撫でつつ、再度冊子の文字を目で追っていくにつれて、
 次第に冬耶の視界は眠気のために暗転していった。
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