安らぎの檻 朽ち逝くとき−あの人の猫のつもり*後編−


 「…冬耶、冬耶!」

 バタバタと階段を駆け上がりながら、雫は冬耶がいるはずの部屋に走る。
 手には旬の果物を抱え、宿を飛び出す前の膨れっ面は何処へやら。
 上機嫌で襖障子を開けた。
 スパァンッ、という軽やかな音を立てて戸が開いたために、
 居眠りしていた冬耶も驚きのあまり目が覚めてしまった。
 勿論、冬耶の膝の上で眠りこけていた猫も飛び上がる。

 「冬耶、見て!…っ?」

 部屋に足を踏み入れた瞬間、雫の表情が強張る。
 クンクンと怪訝そうに宙の匂いを嗅ぎ、次いで冬耶の側にいる猫の姿を視認した途端、
 完全に雫の顔から笑顔が消えた。

 「冬耶、それ何?」
 「それって、猫だろ」
 「…何でそんなものが此処にいるんですか?」
 「お前だって昨日聞いただろ?猫が来るかもしれないが、それは勘弁してやってくれって」
 「…追い出して」
 「は?」
 「今すぐ追い出して下さい!そんな、猫なんかと一緒の部屋にいるなんて嫌です!!」
 「そんな心が狭いこと言うなよ。お前はお偉い九尾狐なんだろ?
 それなのに少しくらい寛容になれなくてどうする。癇癪起こすのも程々にしろよ」

 なー?と猫に同意を求める冬耶と、ニャーと返事をするように鳴く猫に雫も怒り心頭だ。
 無言で俯いたと思った刹那、その場から雫の姿が消えた。
 半拍遅れて、バサバサと雫の着ていた着物が床に落下していく。
 そして着物と帯で出来た山から、ひょっこりと小さな狐が顔を出した。
 よじ登って着物の山から這い出してきた狐は威嚇の声を上げながらも猫に飛びかかっていった。

 「雫?!ちょっと待て雫、落ち着け!!」

 ギャンギャンと狐対猫の取っ組み合いよろしく、引っ掻き合いが始まってしまい、
 二匹のあまりの勢いに冬耶も全く手が出せない。

 「雫、こら、もう止せ!」
 「キャゥンッ」

 猫パンチで吹っ飛ばされた雫をこれ幸いにと捕獲する。
 冬耶の腕の中で離せと暴れるものの、雫の目には猫しか映っていない。
 お互いに毛を逆立てて激しく威嚇し合う。
 これはもう猫に部屋を出て行ってもらうしかないと、冬耶は渋々猫に近寄る。
 猫と冬耶に抱えられた雫の距離が縮まっていくにつれ、
 二匹の威嚇の声は益々ヒートアップする一方だ。

 「折角来てくれたのにごめんな、猫。また明日来てくれな?」

 優しく、けれど追い払うように猫の前に手をかざした瞬間…

 「痛ッ!!」

 思い切り指を引っ掻かれた。
 サックリ切れた傷から、じわりと血が滲んでくる。
 猫はそのまま一目散に駆け出し、部屋を出て行ってしまった。

 「いってぇ…!あ、あの猫なんてヤツだ…!!」

 さっきまであれだけ懐いていたくせに、と。
 憤りもあるが、何だか虚しい気分だ。
 思わせぶりにも程がある。

 「…お前も、随分派手にやられたな」

 見ると雫も自慢の毛皮がボロボロのヨレヨレになっている。
 心なしか表情も仏頂面だ。
 冬耶の力が緩んだ隙に、腕から床へと飛び降りた雫は部屋の隅に行って丸くなった。
 冬耶に背を向けて、ぺろぺろと猫との乱闘で負った傷を舐めながら丁寧に毛繕いを始めた。
 無造作に床に転がった果実を拾い上げ、小机の側に再度腰を下ろした冬耶は
 不機嫌そうに揺れている雫の尻尾を溜め息混じりに見つめる。

 「…雫、しーずーく、雫ちゃーん?」

 呼んでも雫は完全に無視するつもりのようで、全く反応がない。
 それでも気にすることなく話しかける。

 「雫、この蜜柑と桜桃はお前が取ってきたのか?」

 すると、雫の尻尾が否定するように揺れた。
 違う、と言っているらしい。

 「じゃあ、誰かから貰ったのか?」

 今度は肯定するように尻尾が振れる。

 「そうか。じゃあ剥いてやるからこっちに来い、な?」

 冬耶の言葉に、雫の耳がピクンと反応した。
 そして、チラリと冬耶を顧みて様子を伺い始める。
 その仕草が可笑しくて思わず笑ってしまいながらも、冬耶は胡座を掻いた膝を叩いて雫を呼んだ。

 「ほら雫、こっちに来い」

 じーっと冬耶を見つめて出方を伺っていた雫だったが、
 やはり食欲には適わないのか大人しく冬耶の側へ歩み寄る。
 トコトコと近付き、冬耶の膝の上にちょこんと座り込んだ。
 猫の匂いが気になるのか、落ち着かないようだが退ける気はないらしい。

 「にしても、こんなに沢山自分一人で食べるつもりだったのか?食い意地張った奴だな」

 ふるふる、と首を横に振って否定する雫に、じゃあ…と別の理由を提示してみる。
 冬耶自身が有り得ないだろうと思っている理由を。

 「…俺にも食わせてくれるつもりだったのか?」
 「…………………」

 大分長い間の後、雫は一つ尻尾を振ってみせる。
 否定ではなく肯定の時の尻尾の振り方だ。
 これには問いかけた冬耶の方が仰天してしまった。
 どんな気まぐれだと無駄に勘ぐってしまいそうになる。
 当の雫は雫で照れているのか、居心地悪そうに顔を背けている。

 「…ありがとうな」

 よしよしと頭を撫でてやると、耳を伏せて、ゆるゆると尻尾を揺らしている。
 悪い気分ではないらしい。
 雫の機嫌を損ねないうちにと、夏蜜柑に手を伸ばす。
 厚い皮を剥こうとするも、指先に込める力加減を誤った所為で果汁が溢れ、
 先程猫に引っ掻かれた傷口に沁みて仕方がない。
 雫は雫で桜桃の蔕を銜えたまま食べようか食べるまいか迷っているようだ。
 実を前足で転がすように弄っている。

 「雫。ほら、口開けろ」

 雫の口元に、剥き終わって食べやすく分けた蜜柑を一房近付ける。
 雫は注意深く匂いを嗅いでから、小さくかぶりついた。
 同時に冬耶も一房自分の口に放り込む。
 夏蜜柑独特の苦味と酸味が口の中に広がり、どこから貰ってきたものかはわからないが
 こんなに貰ってきた雫を称賛するには十分すぎる旨さだ。
 しかし、雫は口に入れて少し噛んで味を確かめるとすぐに吐き出してしまった。
 ケホケホと咳き込んでしまっている。

 「どうした?変なところにでも入ったか?」

 気管に入ってしまったのかと心配したが、雫は違うと否定する。

 「じゃあどうした?」
 「……」
 「…ああもう、お前人間の姿に戻れ!埒があかん」
 「……人間の姿に戻れって、私は元々狐です」

 冬耶の言葉を受け、雫は渋々ふわりと人間の姿に化けた。

 「…お前、せめて膝から降りてから人の姿になれよ」
 「注文が多すぎです」

 ふん、とそっぽを向く雫は、しかし、冬耶の膝の上から退こうとしない。
 そのまま今度は桜桃を摘んで、注意深く観察を始める。

 「冬耶」
 「あ?」

 相変わらず全裸でいても羞恥心の欠片もない雫に視線のやり場が困ると、
 せめて襦袢だけでも掛けてやりながら、冬耶は雫の呼び掛けに返事をする。

 「コレは苦くない?」
 「コレって、桜桃か?桜桃は苦くないだろう。何だ、食ったことないのか?」
 「ありませんよ。さっきの苦くて酸っぱいのも、コレも初めて食べます。
 食べたことないって言ったら、露店のおばさんがくれました」
 「親切な人に会えて良かったじゃないか。
 蜜柑に桜桃なんて普通タダではもらえないぞ、しかもこんなに」

 更に夏蜜柑をもう一房口の中に放り込む。
 その冬耶の様子を見て、雫は信じられ ないというような表情をありありと浮かべた。

 「よくそんな苦くて酸っぱい不味いもの、平気で食べられますね。やっぱり人間って変」
 「ああ、だから吐き出してたのか。
 まぁ口に合わなかったなら仕方ないが…じゃあ桜桃の方を食ってみろ」

 冬耶からも促され、雫は恐る恐る桜桃をかじってみる。
 途端に、雫の表情がパァァッと明るく晴れ、仕舞っていた狐耳までピンッと立ち上がった。

 「…どうした?そんなに口に合わなかったのか」

 ふるふると勢い良く首を横に振る雫の顔を覗き込んでみれば、ぽっと頬を上気させている。
 初めて見る雫の表情に冬耶の方が面食らってしまった。

 「…雫?」
 「冬耶、これ美味しいです!」

 振り返って冬耶に、それはもう嬉しそうに報告する雫に若干気圧されながら、
 そうか…と辛うじて返事を絞り出す。
 元々黙っていれば小柄で可愛くて綺麗な造形をしているだけに、
 一度笑顔を見せられれば雫の性格と素性とを忘れてうっかりトキメいてしまいそうになる。
 一つ咳払いをして、血迷った考えを打ち払う。

 「…そんなに旨かったのか?」
 「少し酸っぱかったけど、すっごくすっごく甘くて美味しいの!冬耶も…はいっ!」

 食べて、と口を開けるように促され、照れくさいながらも大人しく雫の言動に従う。
 珍しくニコニコ上機嫌に笑っている雫から、更に何かを食べさせてもらうのに悪い気はしない。

 「美味しいでしょう?」
 「ああ、こいつは旨いな。道理でお前が気に入るわけだ」

 酸味も甘さも絶妙で、桜桃としては相当美味しい類に入るだろう。
 ただ冬耶的には、桜桃より酸味は強いがサッパリした夏蜜柑の方が好みだった。
 逆に、雫的には甘い味わいが強い桜桃の方が圧倒的に好みだったらしい。
 一粒一粒大事そうに口に運んでは、ゆっくり味わって食べている。
 そんな雫の表情は本当に幸せそうだ。

 「お前の好物、やっと一つわかったな」

 雫に聞こえないくらいの声で呟いてみる。
 知らない表情や好物を知ることで、距離が少しずつ縮まっていくような気がする。
 やはりこれから先も共に旅をするには、
 仲が悪いよりも仲が良い方が断然良いに決まっているのだから。
 雫も先程からベッタリと冬耶にくっ付いているので、
 距離は若干でも縮まっただろうと身を持って実感出来る。
 たまには、こういった和やかな空気も良いものだと感動しながら、
 次々と蜜柑の実を口に放り込んだ。
 そして、雫が上機嫌な今ならこれまで疑問に思っていたことに答えてくれるのではないかと思い立つ。

 「なぁ雫、お前狐だよな?」
 「…そうですよ?」
 「それで、俺のこと苦手やら嫌いやら言ってたよな?」
 「………」
 「俺な、お前だけじゃなくて殆どの動物から嫌われるんだよ。
 俺は動物が嫌いではないのに、何故嫌われるか思い当たる節もないし…。
 お前には俺が動物に嫌われる理由、何かわかるか?」

 冬耶の思いがけない質問に、雫も驚く。
 おろおろして、けれど冬耶の質問に答えるべく逡巡しながらも返答を口にした。

 「…貴方からは狼みたいな匂いがするんです。他の動物のことなんてわかりませんけど、
 少なくとも私はそんな匂いがしたから警戒するに値する危険な人だって認識してました」
 「狼って……人をケダモノみたいに思ってたのか、お前。
 でも認識してたって過去形なのは、今はそう思ってないってことか?」
 「そんなの良くわかりません」
 「まぁ、お前が言うような理由で他の動物にも嫌われてるんだったら、俺自身ではもうどうしようもないな」

 この宿の三毛猫のような奇特な性格の動物にしか好かれる望みはないということだろう。
 それでも、まぁ狐である雫と少しでも歩み寄れたことで良しとしよう。
 自分の力ではどうしようもないことで落ち込んでいても仕方がない。
 何事も悪い方にではなく良い方に考えるべきだと前向きに思い直した。
 状況は今までと変わらなくても、これから仲良くなれるかもしれない動物が今側にいるのだから。
 冬耶の膝の上で暢気に桜桃をかじっている一風変わった狐が。

 もう少し、果物の甘酸っぱさに浸ってから明日の予定について話し合おう。
 人並みの美的感覚は持ち合わせているようなので、明日見に行くつもりでいる紫陽花の花を見て、
 雫は一体どんな表情を見せてくれるだろうか。
 密かに楽しみだ。
 ただ、猫に付けられた傷が熱を持ってしまっては明日の予定に差し障る。
 そのことに気付いた冬耶は、それとなく雫に傷の治療を提案した。

 「なぁ雫、これ食ったら猫にやられた傷の手当てもちゃんとしような?」

 うん、と素直に頷いた雫だったが、いざ手当てとなって面白がった冬耶からワザと傷口に
 沁みる薬を塗りたくられたことで激怒し、冬耶の指の引っ掻き傷に思い切り噛み付いて逆襲を果たした。
 一気に不機嫌になった雫に、また離れてしまった距離を感じながら
 冬耶は自分の軽率な悪戯心を心底悔いる。
 それから数日、雫から口を聞いてもらえず、
 その数日間冬耶は雫の機嫌をとろうと必死になるのだった。


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【あとがき】
ヤマなし、オチなし、意味はまぁある第1話になってしまいました…。
猫パンチで吹っ飛ばされる狐も、ご都合主義で片付けて下さい。
猫の猫的な性格がわからないため捏造しまくりですorz
一応1話は初夏設定な季節柄ではありますが時代的に夏蜜柑はあるのか?とは思うものの
なんちゃって世界観なので無問題。と思いたい。
雫は何だかんだで冬耶にくっついてますが、現状では冬耶が好きというより食べ物に釣られた要素が大きいです。
加えて猫が冬耶の膝に座っていたことが気に食わなかったため、対抗意識で冬耶の膝の上に陣取った感じです。
ヤキモチという気持ちまではまだいってないです。
冬耶は売り言葉に買い言葉で「嫌い」と言ってますが、普通に雫に好意は持ってます。
雫の性格的に手のかかる子供くらいにしか思ってませんが。1話現在では二人とも恋愛感情はありません。
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