安らぎの檻 朽ち逝くとき−裸足*前編−


 「あちぃ…」

 着物の袖を捲り上げ、胸元も大きく肌蹴させた格好で、
 冬耶は宿の木机に片肘を付けもたれ掛かるようにして身体を預けていた。
 季節柄仕方のないことだが、夏の茹だるような暑さにやる気が出ない。
 窓の枠に吊されている涼しげな細工の風鈴も、風に揺れることもなくチリンと音を立てることもない。
 それが余計に暑さを際立たせた。
 部屋の隅を見やれば、そこにはまるで屍と化してしまったかのような狐の姿がある。
 行き倒れたようにバッタリと倒れ伏し、尻尾だけを時折フサッと一つ揺らしている。
 それを見て、屍になっていないことを確認する。
 雫も冬耶と同様、夏の暑さに弱り切っていた。

 「…おい、雫。その暑苦しい毛皮、どうにかならないのかよ?」

 ふさふさとした毛皮を見ているだけでも暑苦しいと文句を並べ立ててくる冬耶に、
 ぐったりした雫も煩わしそうに尻尾をバシバシと床に叩きつけた。
 毛皮を持って一番暑い思いをしているのは間違いなく雫自身だ。
 それを何たる言い草だと、雫も腹を立てる。
 反論するため、雫はふわりと人間の姿に化けた。
 瞬間、雫の表情が不機嫌顔から驚き、次いで嬉しさを滲ませるような表情に変わった。

 「…どうした?」

 てっきりギャアギャア文句を吹っかけてくると想定していたが、
 文句を言うどころか雫は嬉しげな様子でいるために何があったのかと不思議でならない。
 相変わらずの全裸姿で、キョロキョロと人間と化した自分の身体を見回している。

 「取り敢えずお前、着物を」

 着ろ、と言い終わる前に雫が冬耶の言葉を遮った。

 「冬耶、人間の身体って涼しいんですね」
 「は?あ、あぁ…そりゃあ人間は狐みたいに毛むくじゃらじゃないしな。毛がない分狐より涼しいんだろ。
 しかもお前全裸だしな。早く着物着ろ」
 「冬耶も暑いなら着物なんて着なければ良いじゃないですか。
 こんなに涼しいのに、わざわざ暑い格好するなんて人間は変です」

 冬耶の側に寄り、座り込んで切々と疑問を口にする。
 冬耶からすれば、一体何度着物の必要性について雫と討論しなくてはいけないのかと頭を抱えるしかない。

 「変でも暑くても、基本的に人間は着物を着てなくちゃいけないんだよ。何度言わせりゃわかる」

 自分まで暑さに負けて着物を脱いでしまったら、
 全裸の雫を目の前に理性と欲望との白熱した争いが冗談抜きで繰り広げられそうだから嫌なのだ。
 いくら狐でも、人間の姿をとっている時の雫は紛れもなく美女に位置づけられるのだから。
 加えて、雫と共に旅をするようになってから雫を一人にすることも出来ず、
 かと言って雫をそういう対象にするわけにもいかずに禁欲生活もいいところだった。
 生殺しの日々がいつか限界を超えてしまわないかと常にハラハラする毎日だ。
 本来の狐の姿に戻っている雫を目に焼き付けては、神族だろうが何だろうが動物に手を出したら負けだと
 常々自分に言い聞かせていたりする。

 「郷に入っては郷に従え。人間の姿をとるなら人間の世の中の決まり事を守れ」

 わかったか、と冬耶が説けば雫も渋々言うことをきく。
 緩慢な動作で襦袢を一枚羽織ると、途端に雫は弱り切ったように顔を歪めた。
 やはり暑いらしい。

 「冬耶…暑い…」
 「暑いって言うな、余計暑くなる」

 冬耶の言葉にしょぼんとなってしまった雫を見て、冬耶も溜め息を吐きながら頭を掻く。

 「涼しくなるかはわからんが…雫、ちょっと後ろ向け」
 「…何ですか?」
 「髪結ってやる。今のままより少しはマシになるだろ」

 言いながら、素直に背を向けてきた雫の髪を指先で弄ぶ。
 それをチラリと横目で確認すると雫は大人しく冬耶に身を預けることにした。
 サラサラと髪に櫛が通っていく音が耳をくすぐる。

 「…冬耶は何でも出来るんですね」
 「何でも?そうでもないと思うが…どうした、いきなり」

 ポツンと呟く雫に、そのまま流れで冬耶も応える。

 「だって着物の帯も結べるし、髪だって結えるでしょう?」
 「それは単にお前が不器用だから出来ないだけであって、俺が何でも出来るからってわけじゃない。
 人間なら普通に暮らしていれば嫌でも身に付くことだ」
 「でも漣様は……」

 言いかけて一度口を噤んだ雫は、けれど小さく頭を振って、改めて言葉を続けた。

 「男物と違って女物の着物の着付けはややこしくて難しいって聞きました。
 それなのに冬耶は自分のも私のも簡単に着付け出来るでしょう?」
 「それは…脱がせることが多ければ自ずと着付け方もわかってくるというか何というか…」

 ゴホンゴホンと咳をしつつ言葉を濁す冬耶に向けられる雫の視線が心なしか痛い。

 「あー…そうだ、雫。日が暮れ始めたら海にでも行ってみるか?夕暮れ時ならそう暑くもないだろうし」

 居たたまれなくなり、話題転換を試みる。
 元々海に近い宿場の一つに宿を取ったため、宿に留まっているうちに雫を連れて海に出向こうとは思っていた。
 が、まさかこういう形で海に行く提案をすることになろうとは冬耶自身思ってもみなかった。

 「海?あの向こう側に見える大きな水溜まりを見に行くんですか?」
 「ああ、そうだ。行かないか?」
 「涼しくなる?」
 「まぁ、そうだな。時間的にも気分的にも大分涼しくなるとは思うが」

 どうする?と再度問い掛けられ、雫はどうしようかと考え込む。
 暫く唸っていた雫だったが好奇心には逆らえなかったのか、涼しくなるなら行くと頷いた。

 「海の水は塩辛いって聞きました。本当なんですか?」
 「後で自分で確かめてみろ。百聞より一見に如かず、だ」

 ギュッと雫の髪を適当な紐で縛りながらそう言った冬耶に、雫は楽しみだと笑った。
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