安らぎの檻 朽ち逝くとき−裸足*中編−


一帯に小波の音が大きく響く。
周囲を満たす磯の香りが鼻腔を刺激した。
眼下に広がる、夕陽を模写した広大な水面を見て、海に来たのだということを実感する。
草鞋を脱ぎ、冬耶は一足先に海水に足をつけた。
夏の暑さで火照った身体に冷えた海水は心地良い。
泳ぐつもりは最初からないが、水に足をつけるだけでも十分涼める。

「雫どうした?早く入って来い」

涼しいぞ、と、もたもた砂浜で戸惑っている雫に声をかけると雫は助けを求めるような目で見詰めてくる。
冬耶に倣って裸足になり、海に入って来ようとしているようだがなかなか水に足をつけない。
否、足をつけられないらしい。
小波が足元に寄せてくる度に後ずさっては、引いていく波にまた引き寄せられるように海に近付き、
また寄せてくる波から逃げ出してを何度も繰り返している。

「何やってるんだ、お前…」

ザブザブと足首あたりで水を掻き分けながら雫の側まで近付く。
挙動不審としか思えない雫の行動に半ば呆れながら、冬耶は雫に一体どうしたのかと問い掛けた。

「み、水が追いかけてくるんです…!」
「は?」
「水の中に入ろうとしたら、水がこっちに…ひゃああっ!」

言い終わる前に、再度打ち寄せてきた波から逃げ出す雫の狼狽えようは
普段のツンツンした高飛車な姿からは想像も付かない。。
本気で波に怯えている雫の様子に「流石動物」という感想と同時に、
うっかり「可愛いじゃないか」という感想までもが頭をよぎってしまった。

「そんな怖がるほどのこともないだろうに。ほら、手ェ出せ」
「手?」

言われるがままに雫は差し出された冬耶の手を握る。
強い力で握り返された瞬間、更に強い力で思い切り冬耶の側に引っ張り寄せられた。
いきなりのことに驚いている間に、バシャバシャと水を踏みしめて海の中に入ってしまっていた。
吃驚してしがみついてくる雫を見下ろしながら、冬耶は可笑しそうに笑う。

「ほらな、ちっとも怖くなかっただろ?」

冬耶の問い掛けに雫も素直に頷いた。
サラサラと足の甲の上に砂が流れていく。
砂を踏みしめる感触が気に入ったのか、雫は冬耶の側を離れ飛び跳ねるように歩き回った。
濡れないように着物の裾を摘み、どんどん冬耶から離れて沖の方へ行ってしまう。

「雫、あんまり遠くに行くな。足元に気を付け…」

言い終わらないうちに雫の姿が視界から消える。
代わりに雫が元いた場所で小さく飛沫が上がった。

「お、おい雫!」

大丈夫か、と仰天した冬耶は慌てて雫の元へ駆け寄る。
雫は全身びしょ濡れになって座り込んでしまっていた。
駆け寄ってきた冬耶を今にも涙が溢れそうな潤みきった目で見つめてくる。
そして雫は泣きそうな声で現況を告げた。

「冬耶ぁ…足、痛い…」
「足?」

雫の言葉を受けて、雫の足元に視線を向ける。
ゆらゆらと水面が揺れるために見辛くはあったが、雫の足元には砂に埋もれた石のようなものがあった。
石ではなく貝かもしれないが、沈みかけの太陽が明かりでは判断が付かない。
兎に角、石のように固い何かを踏みつけてしまったということらしい。
そこまでわかれば、痛みと驚きの為に足元がフラつき、そのままひっくり返ってしまったのだと容易に想像が付いた。

「まったく、世話が焼ける奴だな」

呆れたように呟きながら、冬耶は座り込んでいる雫を軽々と抱き上げた。

「お前、俺の着物まで濡らしやがって…どうしてくれるんだ?」
「なっ…!だったら今すぐおろして下さい!!私は別に抱えてくれだなんて頼んでません!
貴方が勝手にやったことじゃないですか!!」
「こういう時は汐らしくごめんなさいくらい言うもんだぞ」
「そんなの貴方の勝手な理想じゃないですか、押しつけないで下さいよ図々しい!」

やいのやいのと食ってかかってくる雫の反論を受け流し、冬耶はさっさと海から上がる。
僅かに水面を照らしていた陽も落ち、代わりに東の空に昇った月が地を照らし始めている。
日が暮れたことで一気に闇に包まれた海は酷く不安を煽る。
抱き上げられ、背に背負われ直した雫は黒一色に染まった海に目を向けた。
不安げに顔を歪めて、ギュッと冬耶にしがみつく。

「どうした?まだ海で遊びたいってか?怪我したクセに懲りないな」
「…違います。海なんて嫌いです、川の方がいいです」
「石踏んづけてひっくり返ったのがそんなに恥ずかしかったのか?」
「そんなんじゃありません!濡れたところがベタベタして気持ち悪いし、
水はしょっぱくて美味しくないし…暗くて怖いし……兎に角嫌いです!早く帰りたいです!」

ギューッと一際強くしがみつきながら訴えてくる雫の行動に、冬耶の首が意図せず絞まる。

「わ、わかった!わかったから離せ雫!首が絞まる…!!」

冗談抜きで苦しそうになってきた冬耶の声を聞いて、雫も渋々腕に篭めていた力を緩める。
冬耶の首に回していた腕を引いて、冬耶の肩にそっと手を添え直した。
冬耶も大人しくなった雫を軽く揺すり上げ、背負い直す。

「まったく、怪我人は大人しくしてろよ。じゃないとまた海に放り込むぞ」

雫に首を絞められた余韻で小さく咳き込みながら憎まれ口を叩けば、
雫がムッとしているのが背中越しに伝わってくる。

「私は人ではないし、海は嫌いだって言ってるでしょう?冬耶は私の話を聞いてないんですか?!」

これだから人間は!と、ぷんすか憤慨する雫に笑いが抑えられず、
それでも雫の狐としてのプライドを尊重してやるべく言い直してやる。
しっかりと笑いを含めつつ。

「怪我人って言われるのが不服か。じゃあ、怪我ギツネは大人しくしてろ。
暴れるなら真っ暗でこわ〜い海を泳がせてやろうか?」

敢えて雫が嫌がることを言ってみたくなる。
してみたくなる。
暗い海が怖いと言うのなら、敢えてそこに放り込んで雫がどう反応するか見てみたい気持ちがあるのは確かだ。
如何に我儘で高飛車な雫でも、恐怖のあまり自分に助けを求めてくるだろうか。
泣いて縋り付いてくるだろうか。
二つを足した言動に出てくれれば、それほど理想的なことはない。
泣き顔だけ見れば本当に可愛いと思ってしまうくらいなのだから、
相応の汐らしい態度を取ってくれれば言うことなしなのだが…。
…ちょっと本当に海に投げ落としてみようか…?

「…何ニヤニヤしてるんですか?」

暗い所為で冬耶の顔なんて見えていないはずなのに何か不穏なものでも感じ取ったのか、
雫は敏感に冬耶の表情を言い当てる。
我知らぬうちに、泣いて縋る汐らしい雫の姿を想像してニヤついていたらしい。
冬耶は慌てて緩んだ頬を引き締めた。

「また下らないこと考えてましたね」

気持ち悪い、と雫の鋭い指摘が飛ぶ。

「下らないとは失礼な。俺はお前がどうやったら淑やかな女になるのか考えてただけだ」

淑やかと汐らしくでは若干意味が異なるが。

「どうせ本当に私を海に放り込もうとか考えてたんでしょう?鬼畜な貴方のことだから」

畜生にも劣る、最低だ、等と雫は冬耶の背中でつらつら文句を並べ立てる。
事実雫の読みは悉く当たっていたので、下手に反論出来ない。

「…やっぱり冬耶なんて大嫌いです」

ムスッとした声を冬耶に投げかけながら、雫はぷらぷらと冬耶に抱えられた両脚を揺らす。

「まぁそう言うなよ、ちょっと想像しただけだろうが。
…それより、お前怪我してるくせに足バタ付かせるなよ。手当てする前に悪化するぞ?」
「こんなの舐めておけば治ります。冬耶の手当ては痛いから嫌です」
「痛くしないから」
「冬耶は嘘吐きだから信用出来ません」

取り付く島もない雫の返事に、冬耶も思わず苦笑を漏らす。
はいはい、と聞き流しながら、宿に戻れば雫がどんなに遠慮しようと嫌がろうと問答無用で手当てしてやろうと、
密かにほくそ笑む冬耶だった。
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