安らぎの檻 朽ち逝くとき−あかない鉄格子の扉*前編−


「……」

意識がゆっくりと覚醒する。
体が促すままに瞼が上がり、徐々に眠気も抜けていく。
一つ大きく欠伸をした狐は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
暢気に見える動作で首を掻き、愛らしい瞳で周囲を見回す。
しかし、目当てのものが見付からなかったのか小首を傾げて小さく鳴き声を上げた。
身体を包み込んでいた衣服の山から這い出してきた狐──雫は、か細く鳴き声を上げて冬耶を探す。
爽やかな秋晴れの空気が心地好くて、うっかり寝入ってしまっていたらしい。
目が覚めてみれば、室内は伽藍としたもので、寝入る前にはいたはずの冬耶の姿もない。
聞こえてくるのは外で鳥が囀ずる声だけで、室内はシンと静まりかえっていた。
ただ自分の身動ぐ音だけが、やけに大きく聞こえてくる。

ふ、と数ヵ月前の感覚が蘇る。
静まり返った密室に自分一人。
誰に気付かれることも気にされることもなく、祠の外の様子もほんの少しの戸の隙間から覗き見るだけ。
子供達の遊ぶ楽しそうな声を、何度羨ましく聞いただろう。
日差しの下で飛び回る鳥達を何度妬ましく思っただろう。
祠の中で幾年月、ひとりぼっちで過ごしただろう。
朽ち果てることも許されず、たった一人。
きっと迎えに来てくれると信じていた。
それだけを支えに寂しさにもじっと耐えた。
何年も何年も、いくつ季節が廻っただろう。
祠の中でいつも思い出していたのは、一人の人間のこと。
穏やかで優しくて、初めて自分だけの居場所をくれた人。
祠の扉が開かれた時、正直その人が迎えに来てくれたのだと思った。
けれど、逆光で目に映った人影は長髪で、一瞬にしてその期待は打ち砕かれた。
長髪=許婚=朝露という先入観があったせいで扉を開けた冬耶を朝露と勘違いして
飛び掛かってしまったのだが、まさかそんな相手と旅をすることになるなんて思ってもみなかった。
そして、待っていた彼の人は既にこの世になかった。
それほどまでに長い間祠の中に閉じ込められていたとは思わず、
それでも揺るがない事実にただただ絶望した。

…思い出して、涙が零れそうになる。
慌てて頭を振って、今しがた考えていたことを打ち消した。
冬耶と一緒にいる時はそんなことを考える余裕は露ほどもなかったが、
こうして一人になるといけない。
悲壮感に苛まれる。
キュ、と一声鳴き、雫は気落ちした気持ちを切り替えるようにもう一度頭を振ってから立ち上がった。
そのまま何気なく文机に目をやると、冊子が置いてあることに気付いた。
ぴょこんと軽やかに跳躍し、文机の上に降り立つ。
無造作に置かれた冊子の隣に墨を浸されたままの硯と筆が放置されていた。
冬耶の手記かと鼻先を使って表紙を捲ってみたものの、それは染み一つないまっさらな新品で
冬耶の文字の痕跡など一欠片もないものだった。
期待外れとばかりに雫の耳と尻尾がしょぼんと垂れ下がる。
気が削げたとばかりに雫は身を翻し、文机から飛び降りようとした。

しかし、その時…──

「──!!」

硯を飛び越えた瞬間、硯の上にあった筆に九つある尻尾の一本が触れ、
筆がカタンと音を立てて転がった。
そのまま、新品で真っ白だった冊子の頁へ墨を滴らせる。
黒々とした染みを無数に残しながら転がった筆は、いっそ気持ち良いくらいに頁を汚してから止まった。
あまりの事態にどうすることも出来ず、その場でカチンと固まってしまっていた雫は、
無惨に墨が散ってしまった新品の冊子を見てダラダラと冷や汗を流す。
この惨状を目にした冬耶の怒った顔が目に浮かぶようだ。
どうしようどうしようと、ひたすらオロオロしてしまう。
冬耶の怒りが収まるまで逃げなくてはと、きょろきょろ周囲を見渡す。
追い詰められた雫の目に映ったのは、布団を仕舞ってある押し入れだった。
まさに隠れるにはうってつけの場所だ。
急いで文机を降り、押し入れに駆け寄る。
ガリガリと引っ掻いて開けようとするものの、狐の姿では力が足りない。
ふわりと人の姿に化け、襖を開ける。
先程まで寝床と化していた着物をたぐりよせ、そのまま押し入れの中に駆け込んだ。
人の姿では流石に狭いが、襖を閉めるまでの辛抱だ。
襖を閉め切ったところで狐の姿に戻る。

──…まさか冬耶だって自分がこんなところにいるとは思うまい。

ほとぼりが冷めるまで、しばらくここに隠れていよう。
ホッとしたような心地で、雫は着物の中に埋もれた。



「─…っあ」

ガシャンと音を立てて割れたのは、熱い茶が点てられていた茶碗だった。
割れて飛び散った破片に緑色をした液体は、彼の大切な書物を否応なしに濡らしていく。

「あっあっ!」

まだ化けることにも、人の姿で過ごすことにも慣れていなかったせいで、
おずおずと触れようとした碗を誤って取り落としてしまった。
ただただ呆然と紙の所々が点々と緑色に染まっていく様子を見詰めるしかなかった。

──怒られる。

いつも優しい彼だって、自分の大切なものをこんな風にされたら怒るに違いない。
罵られるに違いない。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。
最悪の想像をして泣きそうになりながら、目に映った押し入れの襖を開けた。
かくれんぼをするように小さな身体を隙間に潜り込ませる。
襖を閉めて息を殺した。
それでも、次第に溢れ出る涙は止められず、泣き声も押し殺せていなかった。
どれくらいそうしていただろう。
ぐすぐすと泣いていると、襖で隔たれた向こう側で人が動く気配がした。
びくりと震えて体が硬直したのとほぼ同時に、ゆっくりと襖が開く。

「雫、見付けた」

掛けられた声に怯えたように振り返れば、
彼がいつもと何一つ変わらない優しい笑みを湛えて此方を見ていた。
怒っている様子は微塵もなく、けれどやはり怒られて当然のことをしてしまった手前、
いつ豹変して怒鳴り付けられてしまうのかと怯えずにはいられない。
涙でぐしゃぐしゃに濡れた瞳で彼を見やれば、彼は穏やかに微笑んだまま手を差し出した。

「雫、おいで。お茶は熱かったろう?火傷はしてないかい?」

心底心配そうな声で問い掛けられ、怯えとは違った意味で雫の瞳から再び涙が零れる。
怒るどころか雫の身を案じてくれる優しさに涙が溢れて止まらない。
ボロボロと涙を溢しながら彼の手を取り、そのまま胸へと飛び付いた。
しがみついて、わんわん泣いてしまう。

「ごめんなさい!ごめんなさい、漣様!漣様の大切なご本、汚しちゃってごめんなさい!
綺麗なお茶碗割っちゃってごめんなさい!!」

一気に捲し立て、そのまま声を上げて泣く雫の背を、
漣と呼ばれた青年はあやすように優しく撫でる。

「良いんだよ。形あるものは滅びるものなんだから。
書簡にしたっていつかは虫に食われて朽ちるものだよ。
それが少し早くなっただけのことだから気にしなくて良い。
そんなことより、雫に怪我がなくて良かった」

ぎゅっと抱き締めてくれる暖かい腕に心底安堵する。
袖口で涙を拭ってくれる。
雫が泣き止んだことを確認すると、漣は雫にもう一度笑いかけた。
今度は雫もそれに応えるように笑い返す。

「もう大丈夫だね。割れた欠片を片付けて、それからおやつにしようか。
今日は雫の好きな草餅があるからね」
「本当?漣様大好きっ!」

雫は草餅に釣られて無邪気に喜んだ。
そんな雫に、漣も愛しげな視線を向ける。
…彼の優しい笑顔は今でも色褪せない記憶として残っている。
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