安らぎの檻 朽ち逝くとき−あかない鉄格子の扉*後編−


「雫、見付けた」

聞き覚えのある台詞に、ハッと意識が覚醒した。
気付けば、いつの間にやら閉ざされていたはずの襖は開けられていて、
冬耶がホッとしたように此方を覗き込んでいるところだった。

「何やってるんだ、お前。いきなりいなくなったと思って心配したじゃねぇか」

安堵したようにそう溢す冬耶の言葉に、雫は驚いて瞠目した。
てっきり頭ごなしに怒鳴り付けられると思っていた。
しかし実際はどうだ、心配してくれたという。
素直に冬耶を見直した雫は、先程の夢の余韻もあって瞳を潤ませた。

「ほら、さっさと出てこい」

言われるがまま差し出された手、否、冬耶の胸に向かって飛び込んだ。
驚いたように雫の小さな体躯を抱き留める冬耶の腕の中で、
雫も居心地良さそうに目を細めながら甘えるように鼻を鳴らした。
こんな風に甘えてくる雫を見るのは初めてだった分、冬耶からすると動揺が隠しきれない。
すっかり調子を乱されてしまった。
しかし、ここは流されてはなるまいと、自分の調子を取り戻すべく冬耶はややわざとらしく咳払いをした。

「…雫、お前に聞きたいことがある」

咳払いの後にもたらされた言葉に、雫はきょとんとして自分を見下ろしてくる冬耶を見つめ返した。
冬耶の意図が読めないため、じっと次の言葉を待つ。
しかし、冬耶は口を開かず、雫を抱いたまま身を翻した。
そのまま歩を進めたかと思いきや、立ち止まったのは件の文机の目の前で。
墨が散った状態のまま放置されていた冊子が視界に入った瞬間、
雫は冬耶の腕の中でギクリと体を強張らせた。
恐る恐る顔を上げて冬耶の顔色を伺う。

「なぁ雫、この惨状は一体何事だ?俺の納得いくように説明してみろ」

まるで仔猫をぶら下げるように襟首の皮を掴み上げられる。
向かい合うように持ち上げられて、宙吊り状態の雫は気まずそうに冬耶から視線を逸らした。

「誤魔化そうったってそうはいかねぇぞ。まさかお前から抱き着いてくるとは思わなかったが、
こうしてしっかり捕まえてんだからな。お前が素直に謝るまでは解放してやらねぇ」

意地悪くそんなことを言う冬耶に、先程の心配したという言葉は嘘だったのかと問い詰めたくなる。
しかし、否と思い直す。
あの心配したという言葉とホッとしたような表情は、冊子を汚した犯人たる雫が逃走して
行方をくらませずにいたことに対して安心したから見せた反応なのだろう。
そう思い至ると急に悲しいような寂しいような腹立たしいような複雑な気持ちになった。
心配してくれたのだと思って無邪気に喜んだ自分が馬鹿みたいで思わず目頭が熱くなる。
ぼろりと涙が零れた。
しかし、大きな眸から涙を溢す雫を見て仰天したのは冬耶の方だった。
普段これでもかというくらい意地っ張りな雫が隠すことも出来ずに泣いている。
確かに怪我の消毒時には傷に沁みすぎるあまり泣き出すことはあるが、その時と今は全く状況が違う。
加えて、今の雫の見た目は可愛らしい小さな狐な為、動物を虐げているような妙な錯覚に陥った。

「お、おい、どうしたんだ。こんなことで泣くなんてお前らしくねぇじゃねぇか。
泣くほど悪かったと思ってるのか?…悪いと思ってるなら、まぁ仕方ねぇな。
許してやるから泣き止め、な?」

ぶらんとぶら下げた状態から、きちんと抱き直してやり、
赤ん坊をあやすような心境で雫の小さな身体を撫でる。
よしよし、と宥めるように撫で続けていると、雫が腕の中で僅かに身動いだ。

次の瞬間…──

「っ、いってぇ!!」

かぷりと雫の鋭い歯が冬耶の指に食い込んだ。
そのまま、がじがじと甘噛みと本噛みの中間くらいの力加減で指を噛み続けられる。
どうやら雫は完全に拗ねてしまったらしい。

「雫…!」

我慢出来ずに冬耶が雫を叱り付けようと声を上げかけた時、
急に雫が今まで噛み付いていた箇所を舐め始めた。
控え目に、恐る恐るといった風にぺろぺろと冬耶の指先を舐める。
拗ねてはいるが、冊子を汚したことに関しては流石に罪悪感もあるらしく、
本人的には謝っているつもりらしい。
意地っ張りな性格なため、素直に謝罪の言葉を口に出来ないが故の行動らしかった。
そんな雫の行動の真意は、なんとく冬耶にも伝わったようで。

「…悪いとは思ってるんだな?」

確認するように問い掛けてくる冬耶に、雫も冬耶の指をぺろりと舐めることで肯定する。

「しょうがねぇな…」

溜め息混じりに呟いてから、冬耶は雫を畳の上におろした。
それから散らかっていた文机の上を手早く片付ける。
すっかり墨が染み込んでしまった冊子を閉じ、硯と筆の墨を切って仕舞い込む。
慣れた手付きで一連の作業を終えた冬耶は、自身も文机の側に腰掛けた。
帰ってきた時に文机の脇に置いておいた包みを文机の中央に手繰り寄せる。
冬耶の傍らにちょこんと座り込んで様子を窺っている雫をちらりと見やってから、
ぽんぽんと胡座をかいた膝を叩いてやれば、
雫のしょんぼりと伏せられていた耳と尻尾がピンと嬉しそうに跳ね上がった。
とことこ冬耶の側に近寄り、今度は冬耶の膝の上を陣取る。
そんな雫を見て、冬耶が堪えきれないとばかりにクスクス笑い始めた。

「お前は人の姿より狐でいる時の方が素直だよな」

わかりやすい、と可笑しそうに笑う冬耶を仰ぎ見るようにジロリと睨め付ければ、
そんな仕草すらも可愛い可愛いと冬耶は頭を撫でてくる。
冬耶のその犬猫にするような態度にムスッとした雫は、頭上にある冬耶の手を払い除けようと、
水を弾く時にするようにぷるぷると身体を震わせた。

「何だよ、褒めてるんだぞ?」

ふいっ、と膝の上でそっぽを向いてしまった雫に弁明するが、
雫が臍を曲げてしまった理由は素直だと揶揄したことではないために、一向に雫の態度は軟化しない。
あくまで雫は、雫と犬猫を同等に扱う冬耶の態度が気に入らなかっただけで、
素直云々と言われたことに対しては特に気に留めていない。

「しょうがねぇなぁ…。雫、これ分けてやるから機嫌直せ、な?」

そう言った冬耶の指し示す先には先程の文机に置かれた包みがあった。
冬耶の指す包みの中身が何なのか確かめようと、雫は文机に前肢を掛け、
冬耶の膝を台代わりにして二本足で立ち上がる。
すると、ちょうど眼前に包みが見える形になり、雫はそのまま包みの匂いを嗅いだ。
くんくんと鼻を鳴らし、包みの中身が何なのか検討を付けるべく思考を巡らせる。
どこか懐かしい匂いがして、押し入れの中で見た夢を思い出した。
次の瞬間、ハッと正体に思い当たった。
と、同時にふわりと人の姿に身をやつす。
パッと嬉しそうに華やいだ表情を浮かべて振り返り、後ろの冬耶を見て口を開いた。

「冬耶、これ、草餅?」
「…ああ、そうだな。草餅だな。でもな、雫、お前人の姿になる時は
せめて俺の上から退いてからにしろっていつも言ってるだろうが…!」

狐の時と重さは変わらないために、そういう意味では苦ではないのだが、
見た目や背丈が変わるために突然自分の上で人の姿をとられると圧倒されてしまうのだ。
その上いつものことながら全裸なので目のやり場に困る。
雫の着物は押し入れに押し込まれたままになっているために、この場からは手が届かない。
雫が冬耶の上から降りない限り、雫の着物を手元に戻すことは難しそうだった。
仕方がないので、なるべく雫の身体を直視しないように視線をさまよわせる。

「…その、なんだ、お前草餅なんて知ってたのか?」
「はい、草餅大好きです」
「大好きねぇ」

狐の癖に贅沢な、と、いつもの軽口が口を突いて出そうになる。
しかし、雫があまりにも嬉しそうに、寂しそうに微笑みながら、
さも大事なものでも見るように草餅を見つめているものだから言葉を掛けることが出来なかった。
一つ摘まんで大切そうに両掌で包み込みながら、雫はポツリと呟いた。

「漣様…」

懐かしさに満ちたその声は冬耶の耳にもしっかりと届く。
雫と行動を共にするようになってから度々耳にする名前だが、
雫にとってはほじくり返されたくない過去に繋がる話のようで
敢えてこれまで突っ込んだ話は聞かずにいた。
しかし、この状況で他の男の名前を出されるのは面白くない。
そもそも草餅を土産として持ち帰ってきたのは自分であって、そこは感謝されて然るべきだろうに、
当の雫は感謝どころか他の男を思い出している始末。
全くもって面白くない。
機嫌が直った雫の次は冬耶の機嫌が急降下した。

「雫、食い物で遊ぶんじゃねえ。食わないなら寄越せ」
「あっ」

有無を言わせず雫の手から草餅を取り上げ、そのままかぶり付く。
唖然とする雫を尻目に冬耶は黙々と食べ進め、あっという間に平らげてしまった。
冬耶が草餅を食べる様を茫然と眺めていた雫は、ごくんと冬耶の喉が鳴った瞬間ようやく我に帰った。

「なっ、何するんですか!それ私の…私のなのに…私の草餅…」
「知らん。お前が食い物を粗末にするから悪い」
「粗末になんてしてません!ただ持ってただけじゃないですか!!」
「そうだったか?そりゃあ悪かったな」

ちっとも悪かったと思ってなさそうな態度の冬耶に、雫は怒り心頭といった具合で涙目になっている。
ぷるぷると震えながら睨み付けてくる雫に、冬耶は一切の無視を決め込んだ。

「…何で、そんな意地悪するんですか…?」
怒りと悔しさ、そして一転した冬耶の態度に対する戸惑いと、
優しさの欠片もなくなってしまった冬耶の言動に悲しくなった雫の双眸から、
はらはらと涙の粒が零れ落ちる。
一人寂しく部屋に残されていたせいか、正直冬耶が帰ってきたことにも、
草餅を土産として持ち帰って来てくれたことも嬉しかったのに。
何故急に不機嫌になって、意地悪してくるのかわからない。

「なんで?なんでそんなに怒ってるんですか?なんで怒るんですか…」

一度泣いてしまうと箍が外れるのか、ちょっとしたことでもすぐに涙腺が決壊してしまうらしい。
止まることなく涙が頬を伝う。
ぐちゃぐちゃに混乱した胸中そのままに、身体の奥から涙が込み上げてくるようだった。
ぱたぱた滴り落ちる涙の粒が、着物も羽織っていない雫の素肌を濡らす。
冬耶と向き合うように雫が身体の向きを変えていたために、
泣く雫と対峙する形になっていた冬耶も流石に困った風に顔を顰めた。

いくらなんでも大人げなかったかと思う。
しかも雫は狐だ。
常識は通じず、空気も読めなければ、人間の感情の機微にも疎い。
そんな雫に、冬耶のその面白くない気持ちを察して理解しろというのは無理があったかもしれない。
そもそも、先達て冬耶が自分の手記を見て弟と許嫁に想いを馳せて懐かしんだように、
雫にだって懐かしく思う相手がいても至極当然のことだった。
たまたま、その相手を思い出して懐かしむ切っ掛けになったのが
冬耶の持ち帰った草餅だったというだけであって、
雫は何も悪いことはしていないし、冬耶に雫を責める道理はない。
落ち着いて考えてみれば、何も不快に思う要素などないというのに。
雫が狐だからということを差し引いたとしても、何故冬耶の機嫌が悪いのかわからなくても当然だ。
何故、こんなにも面白くないと思うのか。
何故、雫が他の人間の名を口にすることがこんなにも不快なのか。

これではまるで…──

はた、と、冬耶の動きが止まる。
口元を押さえるように手をあてて思案していたそのままの状態で硬直している。
眼帯で隠されていない右の瞳は驚愕とでもいうべきか、驚きの色を浮かべて雫を凝視している。

──…これではまるで、嫉妬ではないか。

そう思い至った瞬間、頭の中が真っ白になる。
何も考えられなくなり、完全に思考が停止した。

「…冬耶?」

異変を感じてか、雫が冬耶に向かって手を伸ばす。
そっと頬に触れると、冬耶の身体がギクリと強張った。

「冬耶、どうしたんですか…?」

涙は収まったようだが、余韻の残る濡れた瞳で見詰められて、益々冬耶の身体が強張る。

「…嘘だろ…」

現実が直視出来ない。
雫が口にした名前の相手に嫉妬するということはつまり、少なからず雫に好意を抱いている証だ。
勿論、出逢ってから今日までの数ヶ月間、共に旅をして来たのだから嫌いということはない。
しかし、これといって特別好きになる切っ掛けのような出来事もなかったはずだ。
なのに、何故嫉妬する?
自分が気付かないうちに、それだけ雫が傍にいることが当然になっていたのだろうか。
雫が自分以外の人間の名前を口にすることが許せないなんて、なんたる傲慢だ。
自分はこんなに器の小さい男だっただろうか。
そもそも、自分はこんな人間でもない非常識な存在に惚れるような人間だっただろうか。
自分で自分がわからない。
こんな、人間の身体に狐の尻尾と耳を生やした生き物に惚れてしまうなんて。

「──…惚れて…」
「冬耶…?」
「ッ!!」

耳を伏せ、不安げに見詰めてくる雫の姿が目に入った瞬間、
冬耶は雫の両肩を掴んで自分から引き剥がした。
密着していた雫の身体が離れたことで少しは冷静になれるかと思ったが、
きょとんとして見詰めてくる雫の姿を視界に捉えてしまうと、やはりそれどころではなくなってしまう。
冬耶は残った草餅を雫に押し付けるように渡して立ち上がった。
そのまま押し入れに押し込まれた雫の着物を引き摺り出し、
ぺたんと座り込んでいる雫に向かって放り投げる。

「草餅はやるから、それ着て大人しくしてろ!」
「どこか行くんですか?私も…」
「すぐ戻るから大人しく待ってろ!!」

雫を怒鳴り付けるが早いか、冬耶は部屋から出て行ってしまった。
パシンと大きく音を立てて戸が閉められる。
また一人取り残された雫は、しょんぼりと肩を落として放り投げられた着物を手に取った。

「今日の冬耶、変なの…」

いつも帯を締めてくれる冬耶が出て行ってしまったので、一人で着物を着ることが出来ない。
そのまま肩から引っ掻けるように襦袢を羽織った雫は、押し付けられた草餅に視線を落とした。
取り上げたり、押し付けたり、一体冬耶が何をしたかったのか全くわからない。
何故急に不機嫌になってしまったのかも、何故出て行ってしまったのかも、何もわからない。
残された草餅を一つ手に取り、一口齧ってみる。

「…おいしい」

──…けれど。

「おいしくない…」

味はとても美味しいはずなのに、何か足りない。
大好物のはずなのに、とても味気なく感じる。

「つまらない…」

一人で食べても、つまらない。
独りでないことになれてしまった今となっては、冬耶に置いていかれるということが酷く寂しい。
封じられていた祠から救い出されて以来、何をするにも一緒で
、食事をするのだって二人で分けて一緒に食べるのが常だったのに。
何故今日に限って、冬耶はいつもと違うのだろう。
考えても考えてもわからなかった。
雫は小さく溜め息を吐き、一口齧ったままだった草餅を無造作に包みに戻した。
それを文机の上に置く。
そして、こてんと自らの頭も文机に預けた。
所在なく包みを見詰めるしか、することがない。

「すぐ戻ってくるって言ったのに…冬耶の嘘つき」

一人不機嫌そうにぼやいてみるものの、その声は室内に虚しく響いただけだった。

「………とうや…」

呟いて、身体を起こす。
再度おもむろに包みを開いて、雑然と仕舞われていた草餅を取り出す。
元々三つあったそれは、一つを冬耶が完食し、一つを雫が口にして、
全く手に付けていないものは残すところ一つしかない。
何を思ったか、雫は自分が食べ残していたものをぱくぱくと一気に食べ進め、半ば無理矢理完食する。
そして最後に残った一つを摘まみ上げた。
両手で持って、真剣な表情で凝視する。
餅を摘まむ指先に力を込め、おおよそ真ん中辺りから、ゆっくりと二つに割っていく。
綺麗に半分と言うには程遠い、大小はっきり分かれた歪な形にはなったが、
二つに分けた草餅を大切に包みに戻した。
自分と、冬耶の分。
冬耶が戻って来たら、いつものように二人で一緒に食べよう。
自分は小さい方で良いから、大きい方を冬耶にあげよう。
そうしたら、きっと冬耶の機嫌も直るはず…。
再び文机に頭を預けて包みを見詰めながら、小さく笑みを漏らす。

「…とうや、はやく……」

戻って来て、と呟くが早いか、秋晴れの陽気を前に雫の瞼は閉じられた。


ここはもう、檻のような祠の中ではない。
格子のようであった扉は冬耶が開けてくれた。
一緒にいれば、孤独に怯えることもない。
再び目を覚ます頃には冬耶も戻って来ているはずだ。
機嫌の直った冬耶と一緒に、自分も何の蟠りもなく大好物の草餅を食べることを考えながら、
雫は睡魔に身を委ねた…──


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【あとがき】
3話から大分間が空いてしまいましたが、ようやく4話公開です。
4話では冬耶が自覚して冬耶→雫な感じに。
雫は無意識ですが、3話からずっと冬耶にデレデレな状態です。
4話はもう少しシリアスになる予定だったのですがそうでもなかったので、
5話は完全シリアスになるような話が書けたらなと思ってます。
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