安らぎの檻 朽ち逝くとき−瞼の裏の暗闇*前編−


ごうごう、と風が荒れ狂っている。
雪でも降っているのだろうか、凍てついた風が戸口の隙間から入り込んでくる。
こういう日は良くない。
決まって昔のことを思い出す。
夢に見る。

ごうごう、と風の音が、風の音だけが響く。

──…風?
それとも、水の音だっただろうか。
濁流の音だっただろうか…。
嗚呼、おかしいな、左目が熱い。
古傷が疼く…──


「──…冬耶、冬耶」

誰かの声が聞こえる。
誰かが自分を呼んでいる。酷く不安げな声だ、良くわからないが慰めてやらなくては。
夢現の状態でそんなことを思い、冬耶はうっすらと瞼を持ち上げた。
霞んだ視界に鮮やかな琥珀色が映る。

「冬耶…?」
「…し、ずく」

視界が鮮明になっていくにつれ、琥珀色の正体が雫の髪だとわかる。
夜明け前とあり薄暗い為にやや黒ずんで見えるが、
煌々と絹のように輝いて見える髪を持つ者など、冬耶の知る者の中には一人しかいない。
自然と雫の名を口にする。
雫は弱りきったかのように、その形の良い眉をハの字に歪め、
柔らかい毛に覆われた狐の耳をへにょりと伏せて冬耶を見下ろしていた。

「……どうした?」

まだ上手く働かない頭で、それでも何故雫がそんな浮かない顔をしているのか気になって、
雫の頬に手を伸ばす。
頬に触れた冬耶の手の上に自身の手を添えて、雫はキッと寝惚け眼の冬耶を見据えた。

「どうしたもこうしたもありません。なんだかすっごく苦しそうだったから起こしてあげたんです。
どうしたって聞きたいのは此方です」

雫流に解釈すると、大丈夫か?と言いたいらしい。
どうやら魘されていたらしい冬耶を心配して起こしてくれたようだ。

「怖い夢でも見たんですか?」
「怖い…、そうだな、良い夢ではないな」

先程夢で見た情景を反芻しながらそう溢す冬耶を見て、雫は一層心配そうに表情を歪めた。
いつもの冬耶らしからぬ覇気のない様子に、雫の方が落ち着かない心地になっているらしい。

「…冬耶」
「大丈夫だ、もう何ともない」

何ともないと言いながら、蒼白な顔色はそのままの冬耶を雫は睨み付けるようにじっと見詰める。
そんな顔色でそんなことを言われても全く信用出来ない、そう琥珀の瞳が訴えている。
その様子に雫の考えていることを察したのか、冬耶は弱ったとでも言うような苦笑を浮かべた。

「本当だ、お前も疑り深い奴だな。
…ほら、いつまでも布団から出てないで早く入れ。寒いだろ?俺が」

いつものように茶化した物言いをする冬耶に、納得いかないといった視線を向けていた雫は
諦めたように肩を竦めてから大袈裟に溜め息を吐いてみせた。
直後、ふっと雫の姿が冬耶の視界から消える。
視線を下ろしてみれば、小さな狐がもぞもぞと布団の中に潜り込もうと
鼻先で布団を押し上げているところだった。

元々雫も狐の姿で冬耶の暖代わりとして同じ布団で眠っていた。
魘されていた冬耶本人がもう大丈夫だと言い張るのなら、雫に出来ることは何もない。
まだ時間も早いし、もう一眠りするのが一番だろう。
そう考えて、雫も冬耶の言葉に特に反論はせず、狐の姿に戻って布団に潜り込むことにした。
小さな体には重い布団を鼻先で必死に押し上げ、体を捩り込むようにして布団の中に潜り込んでいく。
冬耶の胸だか腹だかに行き当たると、そこで方向転換し、冬耶に背を向けるようにして丸くなる。
雫が大人しく布団の中に落ち着いたのを確認すると、
冬耶は雫に聞こえないよう小さく溜め息を吐いて左目を眼帯の上から押さえた。
眼帯で隠した傷痕が熱でも帯びているかのように疼く。
参ったな、と胸の内で呟いて、左目を押さえた手とは逆の手で布団の上から雫の体を撫でた。
眠ってしまったのか規則正しく呼吸を繰り返す雫の体が上下に揺れているのを指先から直に感じて、
疼きに強張っていた顔の筋肉も自然と弛んだ。
同時に左目の疼きもゆっくりと治まっていく。

息を吐き、閉め切られた障子戸に目を向けてみれば、未だ吹き荒ぶ寒風でガタガタと揺れていた。
風の音以外に聞こえる音は何もない。
不気味なほどに風の音だけが耳につく。
目を細めて障子戸の向こうの景色へと想いを馳せてみる。
恐らく白銀に染まっているだろう外の世界のことを考えて、苦々しく思うと同時に、
雫はその真白の景色を見てどういった反応を見せるのだろうかと興味が沸いた。
犬のように喜んではしゃぎ回るのだろうか。
そう考えると、あまり快く思っていない雪景色にも少しだけ好感が持てた。

すっかり痛みも治まった傷痕を再度眼帯の上から触ると、
冬耶は寝入った雫がいる方向へと寝返りを打った。
肩口まで布団を引き上げ、直接布団の中の雫の体を撫でる。
ちょうど触れた雫の耳を指先で弄りながら、今日は雫を連れてどうしようかとぼんやり考える。
そうしているうちに、ゆるゆると眠気が襲ってくる。
それに逆らうことはせず、心地よく迫ってくる微睡みに身を委ねた。



「──…っ、はっくしゅ!!…ぁ?」

完全に夜が明け、障子越しに差し込んでくる陽の光に目覚めの刻が来たのだと知る。
しかし、陽の光よりも何よりも、再度魘されることもなく眠りについていた冬耶を
心地よい眠りの世界から現の世界に引っ張り上げたのは凍えるような寒さだった。
自分のくしゃみに驚いて目が覚め、
そもそも何故くしゃみが出るほど身体が冷えているのかと混乱する。
混乱したまま周囲を見渡せば、暖代わりとして冬耶の腹辺りで丸まっていたはずの雫が、
いつの間にやら人の姿をとって冬耶の隣で眠り込んでいた。
すやすやと健やかに寝息を立てている雫の姿にギョッとしたのも束の間、
雫が自身の身体に巻き付けるようにして布団を占領していることに気付き、
冬耶は呆れるべきか怒るべきか自分でも判断がつかずに至極複雑な心境に満ちた渋面を浮かべる。
そして半ば八つ当たりのようにして、気持ち良さそうに眠る雫の鼻を摘んだ。

「……ん……ふ、んぐ…」

徐々に雫の眉間に皺が寄っていく。
苦しげに寝顔を歪めていく雫の様子に、冬耶の溜飲も下がっていく。
小さくもがき出した雫を見下ろす冬耶の表情が、調子も戻ってきたのかニヤつき出した。

「ぅ、ぐ…んん〜〜!!」

息苦しさに堪らなくなったらしい雫が、
鼻を押さえてくる冬耶の腕を払い除けようとするかのように腕を振る。
その動作に逆らうことはせず、鼻から手を離してやれば、雫は大きく息を吸い込んでパチッと目を開けた。
何が起こったのかわからないという顔で、
自分を見下ろしてくる冬耶の顔をぽかんとした間抜けな表情のまま見つめる。

「…冬耶?」
「……良く眠れたみたいだな」

皮肉を込めてそう言葉をかければ、雫は冬耶の言葉の裏にある意味になど一切気付いていないように、
ただただ素直に頷いた。
相変わらずの調子に、思わず冬耶の口から溜め息が漏れる。

「…何ですか?溜め息なんて吐いて。冬耶は眠れなかったんですか?
やっぱり大丈夫なんかじゃなかったんじゃないですか」
「違ぇよ。お前、まず自分の姿見てから物を言え」

頭が痛いとでもいうように、冬耶は片手で額や目元を覆っている。
そんな冬耶の言い種通り、自分の身体を指先から足の先まで確認してみる。
が、何がどういけないのかわからずに、雫は困ったように眉根を寄せて首を傾げた。

「何か、おかしいですか?」
「わからないか?」
「…わかりません」
「……お前、狐の姿で寝てたくせに何で人の姿になってんだよ」
「へ?あ、本当だ…何ででしょう…」
「で、人の姿になった時は素っ裸なはずのお前が身体に巻き付けてる其れは何だ」
「…おふとん」
「それは誰が使ってた物だ?」
「………冬耶」

だんだんと冬耶が言わんとしていることに気付き、項垂れる雫の狐耳もしょぼんと伏せられる。
雫は機嫌を窺うように冬耶の顔を見ながら、「ごめんなさい」と小さく謝った。
そんな雫の上目遣いを受け、
一瞬ぐっと言葉を詰まらせた冬耶は雫から視線を逸らしてそっぽを向いた。
視線を泳がせながらも、いつもの調子を保とうと腕を組んで尤もらしい態度を取る。

「っ…し、仕方ねぇな、お前は。良いから、狐に戻るか着物着るかしろ」
「はぁい…」

雫は、しょぼしょぼと覇気のない動作で枕元に畳んで置いてあった自分の着物を手に取った。
襦袢を着て、冬耶から新しく買ってもらった厚手の着物を羽織る。
そして漸く一人で結べるようになった帯を、
おたおたと覚束ない指使いながらもちゃんと締めて見せた。

「冬耶、ちゃんと出来ましたよ!」
「出来てねぇよ。お前それ左前じゃねぇか、死装束のつもりか?」

えへん、と、得意げに胸を張り、
くるくる回ってきちんと帯を締められたことを見せ付けてきた雫の胸元を見て、
冬耶は呆れたように笑った。
雫同様、厚手の着物を着込んだ冬耶はさっさと自身の帯を締めて、雫の前に立つ。
よれよれに締められた雫の帯に手をかけて、雫の努力の結晶をしゅるしゅるとほどいていく。
あー…、と、雫が残念且つ恨めしそうな声を上げているのには、敢えて無視を決め込んだ。

「ったく、本当にお前はしょうがねぇなぁ」

ほどいた帯を自分の腕に掛け、雫の左右が逆になった袷を正してやる。
ちらちらと視界に入ってしまう雫の素肌を出来るだけ直視しないように気を付けながら。

「…雫、朝飯食ったら外歩くか」
「外ですか?だったら私行ってみたい所があるんです」
「珍しいな。どこだ?」
「ここの裏山に近いところに泉があるんだそうです。
その泉の側に珍しい椿が咲いてるんだって、女将さんが教えてくれました」

雫は、うきうきした様子でぴんと耳を立てる。
その様子を冬耶も微笑ましげに見詰めながら、帯を締め直してやる。
雫がこの宿場の女将とそんなことを話していたのには驚きだったが、
椿に興味を持ったことにもまた驚いた。
しかし、雪の中に咲く椿は綺麗だろうと思う。
真白の中に一際紅く映える椿は美しかろう。
その趣ある風景を、そしてそれを見て喜ぶ雫の姿をこの目に焼き付けておきたいと酷く思った。

「…いいな。じゃあ、そこに行くか」
「はい!」

喜色満面に頷いた雫に、冬耶もつられるように微笑んだ。
いつものような、他人を馬鹿にしたような不敵な笑い方ではない、
穏やかで柔らかい笑顔に、雫も我が目を疑ったとばかりに驚いたように顔を上げた。
しかし、顔を上げた途端に押さえ付けるように頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、
否応なしに下を向かされてしまう。
ようやっと顔を上げた時には冬耶は雫に背を向けて、戸に手をかけていた。

「どうした、行くぞ」

そう言って振り返った冬耶の表情はいつもと同じ仏頂面で、
さっき見た冬耶の優しげな笑顔は目の錯覚だったのかと、
雫は悶々とした気持ちを抱えて冬耶の後を追いかけた。
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