安らぎの檻 朽ち逝くとき−瞼の裏の暗闇*後編−


さく、さく、と雪を踏み締めながら目的地へと歩を進める。
他の足跡一つない、まっさらな白の地面に自分の足跡を残していくのは何とも心地が良い。
冬耶は、はしゃいだ足取りで斜め前方を歩く雫に声をかけた。

「雫、滑らないように気を付けろよ」
「はぁい」

まるで幼子相手に言い聞かせるような台詞に微妙な気持ちにはなったが、
予想通り白銀に染まった景色を見て楽しげに笑う雫を見て、冬耶も満足げに微笑んだ。
幸い夜明けと共に吹雪いていた雪は止み、曇天の隙間から青空が見え隠れしている。
それでも時折吹いてくる風は乾いて冷たいものの、
身が引き締まるように凛と澄んでいる冬独特の空気は冬耶の気性にとても合った。
元来冬生まれの冬耶にとって、基本的に冬は一等好きな季節でもある。
今日のような冬の穏やかな天気は一番落ち着くし心地が良い。
ふっと吐く息が白んでも、それが不快ではない。

「冬耶、冬耶!泉ありましたよ!!」

先を歩いていた雫が喜色満面に振り返り、冬耶に向かって前方を指差した。
雫が指差す先に目を凝らせば、大きな窪地が見える。
その窪地だけ白に染まっていないということは、水を湛えているのだろうと想像がついた。
歩を進め、近付くにつれて全貌が見えてくる。
雫の言った通り、眼前に泉が広がった。
想像よりやや大きかった泉は、表面に氷が張っている。
そして泉の向こう岸には、椿と思われる木々が群生していた。
探し求めていた椿があるかもしれないと喜び勇むと思われた雫だったが、
冬耶の予想に反して雫は泉の畔にしゃがみこんだ。

「雫、どうした?」
「冬耶、これ、氷?」

凍った水面をぺちぺち叩きながら、雫は双眸を輝かせている。

「ああ。昨夜は冷えたからな、水も凍っちまったんだろう」
「つららより大きいですね。冷たい」
「そりゃあ氷だからな」
「透き通っててキラキラ光ってて綺麗です」

雲間から射し込む陽の光を受けて、凍てついた水面が煌々と輝いていた。
その様子が余程気に入ったのか、雫は泉の畔で輝く水面を食い入るように見詰め続けている。
そして、ふと何かを思い立ったように雫が顔を上げた。
そのまま、すくっと立ち上がる。

「どうした?」
「椿、見に行きましょう」
「見に行くって…どうやってだ?
おかしな地形のせいで泉突っ切らねぇと椿のある向こう岸まで行けねぇだろ」
「だから、泉突っ切っていきます」

凍った泉を渡るのだ、と、雫はうきうきと声を弾ませている。
元々の目的であった椿は、事実泉を隔てた向こう岸にあり、
群生している椿の更に向こう側は崖が壁のように立ちはだかっている。
椿の傍に行くには泉を渡るしか方法はないが、
かといってめぼしい場所に橋も掛かっていなければ舟もない。
よって、幸いにも凍結して道となった泉の水面を歩けば容易に向こう岸に渡れる。
そう考えた雫は、嬉々として冬耶に泉を渡ろうと提案した。
しかし、冬耶は雫の考えを否定するように頭を振る。

「やめとけ。氷が割れたらどうする。泉に落ちたら凍え死ぬぞ」
「ぅ……でも、私一人なら軽いから大丈夫です!取ってきて冬耶にも見せてあげます!」
「よせって。陽が差してきたせいで氷が溶けかけてる。危ねぇぞ」
「大丈夫です!待ってて下さい、冬耶にも綺麗なの持ってきますから」

言うが早いか、雫は凍った水面に向かって駆け出した。

「おい、雫!」

冬耶の制止を背に受けながら、氷上を数歩駆けた。
刹那、ピシッと足元の氷に大きな亀裂が走る。
状況を把握する間もなく、瞬く間に足場が崩れた。

「きゃ…っ?!」
「雫…!!」

重力に引き摺り込まれるように雫の身体が泉に落ちた。
飛沫が上がり、大きく水が跳ね上がる。
冬耶の雫を呼ぶ声が谺した。

「とぉ…や…!!」

何かに掴まろうと咄嗟に手を動かしても、触れた氷は凍結が甘いのか触った端から砕けていく。
水を吸った衣が、狐である自分の重さと同じかそれ以上になっているのかもしれない。
重石でも付けられたかのように全身が重く、ひどく強い力で水底へと引っ張られていくかのようだった。
必死で手を伸ばし、足掻いて助けを求める。

「雫!!」

伸ばした手を大きな手が掴んだ。
力強い腕が、とても強い力で沈んでいく雫の身体を引き上げていく。
水中から引き上げられ、雫は冬耶の胸に顔を埋めるようにしてその場にへたり込んだ。

「げほっ、こほっ……と、や…」

引き上げてくれた冬耶の腕に身体を預けたまま、雫は暫く咳き込んだ。
一瞬の出来事にまだ動転しているのか、茫然としたまま何度も譫言のように冬耶の名前を呼ぶ。
冬耶も焦りのあまり乱れた息を整えようと努めながら、震える雫の身体をきつく抱き締めた。

「何やってんだ、お前は…!」

怒鳴るでもない、絞り出すような冬耶の声に、雫の肩がびくっと跳ねた。
すがるように冬耶の身体にしがみついてきた雫を抱き締めながら、無事で良かったと安堵の息を吐く。
着物は濡れて冷たいが、雫の体温はちゃんと感じる。

あたたかい。

生きている。

助けられた。

間に合った。

今度は、間に合った。

無意識にそう思ったその瞬間、左目の傷がひどく疼いた。
眼窩の奥、頭蓋まで貫くような痛みは明け方に見舞われた痛みの比ではない。

「っ…!!」

眼帯の上から左目をおさえつけ、思わず突いて出そうになった声を必死に噛み殺す。
抱き締めた雫の身体に、逆に寄り掛かるように身体を傾けてきた冬耶の様子がおかしいことに気付いて、
雫も身動いだ。

「と、うや…?」

抱き締めてくる冬耶の力がより強くなる。
ぎりぎりと締め付けてくるような腕の強さに息苦しくなる。

「っ、冬耶、苦し…」

驚いて顔を上げ、冬耶を見る。
途端、ぎくりと雫の身体が震えた。
冬耶の表情が苦悶に歪んでいる。
顔色も真っ青だ。
こんなに辛そうな表情は今まで一度も見たことがない。

「冬耶?冬耶!」

冬耶の身の内に、何かが起きている。
しかし、何が起きているのかがわからない。
怖い。
どうすることも出来ない。
名前を呼んでも冬耶は左目を押さえたまま、苦しげに呼吸を繰り返すだけで呼び掛けに答えてくれない。
泣きそうになって、それでも繰り返し冬耶に声をかけ続ける。

「冬耶!どうしたんですか?!しっかりして下さい…!!冬耶!!」
「…だい、じょうぶだ……」

何度目かになる雫からの呼び掛けに、ようやっと冬耶は声を絞り出した。
しかし、その声は酷く掠れている。
荒い呼吸も、苦痛に染まった表情も、真っ青な顔色も、額に浮かぶ脂汗も何一つ治まってはいない。
何が大丈夫なものかと、雫は涙声で激昂した。

「嘘!嘘です!そんな顔して何が大丈夫だって言うんですか!!」

雫の言う通り、今の冬耶には何でもないと誤魔化すほどの余力もなかった。
断続的に左眼窩を貫くような痛みは続き、
気を抜けばすぐにでも意識を手放してしまいそうなくらいだった。
徐々に右目の視界までが歪んで来る。

「冬耶、冬耶!冬耶!!」

その綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めた雫の泣き顔が目に入ったのを境に、冬耶の視界は暗転した。
泣くな、と意識を手放す直前に呟いた筈なのに雫が泣いている。
泣きながら名前を呼んでくる雫の声が、暫くの間脳裏に谺した。
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