安らぎの檻 朽ち逝くとき−消えない傷*前編−


さらりと、誰かの指先が前髪に触れている。
慈しむように優しく触れてくる指が心地良い。
左目に掛かる前髪を、そっと払ってくれているのが目を瞑っていてもわかる。
少しの間の後、左瞼の傷に指とは違う、もっと柔らかいものが触れた。
じくじくと弱く疼き続けていた痛みが、するりと消え失せる。
左目に触れたものが何なのか知りたくて、その柔らかなものの後を追うように、
冬耶はゆっくりと右の瞼を上げた。

「…冬耶?」

恐る恐るといった風に雫が名を呼んでくる。
その声に、沈んでいた意識もゆっくりと覚醒していく。

「大丈夫ですか…?」

ぼやけた視界が開け、雫の顔がはっきりと目に映った。
枕元に座り込んだ雫の指がそっと頬に触れてくる。
その感触に、先程まで髪に触れていたのは雫の指だったことを知る。
周囲に視線を走らせれば、そこは宿泊していた宿の一室だった。
つい数刻前まで使っていた寝床に、また寝かされている。
自分の置かれている状況を把握出来て安心したのか、
冬耶はホッとしたように一つ大きく息を吐き、身体を起こそうと身動いだ。

「なっ、何やってるんですか?!まだ起きちゃ駄目です!大人しくしてなくちゃ駄目なんです!!」

しかし上体を起こそうとした冬耶を見た雫は仰天したのか、慌てて冬耶の肩を押さえ付ける。
あまりにも必死の形相で冬耶が起き上がろうとするのを阻止しようとする雫に面食らって、
冬耶も雫のその迫力に負けるようにして大人しく寝具に横になった。
冬耶が起き上がることを諦めてホッとしたのか、雫も再び冬耶の枕元に座り込んだ。
そして確かめるように、また冬耶の頬に触れる。

「……ごめんなさい…」

冬耶の頬に触れながら、雫が震える声で謝罪を口にした。
何故謝るのかと驚いて雫の顔を仰ぎ見れば、雫はぼろぼろと涙を溢して泣いていた。
気を失う前に見た顔と全く同じだ。
心配をかけて泣かせたいわけではないのに、
否が応にも心配をかけてしまう今の自分がひどくもどかしい。
冬耶は身体を起こさない代わりに、片腕を伸ばして雫の頬に触れた。
幾筋も涙が伝ったせいで濡れている。

「…どうしてお前が謝る?」
「だって、私のせいでしょう…?私が冬耶の言葉も聞かずに泉に入って落ちちゃったから、
冬耶は具合が悪くなっちゃったんでしょう…?!」
「なんだ、お前、そんなこと考えてたのか?」
「だって、冬耶が倒れたの、泉から私を引き揚げてくれた後だったじゃないですか。
何度呼んでも目を覚まさなくて、このまま冬耶が死んじゃったらって…凄く怖かった…」
「…俺はそこまで柔じゃねぇぞ」

一層俯いて泣き続ける雫に、冬耶も弱ったとばかりに苦笑を浮かべる。
確かに倒れてしまったのは雫が泉に落ちたせいであって、けれども雫のせいではない。
雫が泉に落ちて、それを助けたことはあくまで切っ掛けだ。
そのことが切っ掛けで思い出したくないことを思い出した、そして左目の傷が痛みだした。
傷の痛みなのか頭痛なのか判断もつかないような激痛に見舞われ、意識を失うに至った。
それが全てだ。
雫が気に病む必要もない。

「お前は悪くねぇよ。…でも、俺の言うこと聞かなかったのは反省したか?」
「冬耶がいなくなるくらいなら、何でも言うこと聞きます…」
「殊勝な心掛けだな」

ぐすぐすと鼻をすする雫の頭を撫でてやる。
あの高飛車能天気な雫がこれほどまでに意気消沈するほど心配をかけてしまったようだ。

「…もう、苦しくないですか?」
「ああ。今は嘘みたいに何ともない」

冬耶の返事を聞き、雫の表情に安堵の色が浮かぶ。
そして何かを思い出したようにごそごそと袖口を探り出した。

「冬耶、これ…」

雫が差し出してきたのは、紛れもなく普段から冬耶が着用している眼帯だった。
それを見て、冬耶は慌てて自身の左目に手をあてる。
そこで初めて自分が眼帯をしていないことに気が付いた。

「…ごめんなさい、倒れた冬耶をここに運んでもらうときに結び目が緩んじゃったみたいで…、
冬耶が寝返りを打った時に…その、取れちゃって…」

普段あれだけ空気が読めない雫が、気を遣うように言葉を選んでは言いにくそうに口ごもっている。
心配をかけた上に気まで遣わせたのかと、少し情けなくもなった。
確かに倒れる直前、掻きむしるように眼帯を握った。
その時点で結び目が緩くなっていても不思議ではない。
しかしながら、こんな経緯で雫にこの傷を見られることになるとは思わなかった。

一太刀の刀傷とは違う、もっと切れ味の鈍いもので幾重にも裂かれた傷は
周辺の皮膚より僅かに盛り上がり、醜く痕を残している。
自分も見たいものではないし、他人に見せたいものでも決してない。
だから、共に旅をするようになってからは雫にも見られないよう気を付けていたというのに。
こんなことになるなんて、と、冬耶は大きく溜め息を吐いた。

「…悪いな、見て気分の良いものじゃなかったろ」

困ったように笑う冬耶に、雫はまた泣き出しそうに顔を歪めながら、
ふるふると首を左右に振った。
そして、そっと冬耶の傷痕に触れる。
刹那、雫の予想外の行動に冬耶の身体がぎくりと強張った。

「…痛い、ですか?」
「…いや、痛くねぇよ。もう随分前の傷だからな」
「でも、さっき苦しそうにしてる時、冬耶ずっと此処押さえてました。
痛かったんじゃないんですか…?」
「良く見てるな、お前…」

感心したような、呆れたような、どちらとも取れる声で冬耶が呟く。
誤魔化すのは無理か、否、傷痕を見られた今、今更誤魔化す必要もあるのかと逡順する。
何と答えるべきか決めあぐねていると、枕元で雫が小さくくしゃみをした。
それにより思考の海から引っ張り上げられた冬耶は、はたとあることに気付いた。
雫の指先が少しばかり冷たい。
凍った泉に落ちたのだから、雫の身体が冷えていても当然だ。
しかし、雫は身体を温めるために何かしら暖を取ったのだろうか。
出掛ける前に着ていたものと着物が違うので濡れたものから着替えはしているようだが、
先程頭を撫でた時、髪はまだしっとりと濡れているような気がしたのは気の所為ではなかったらしい。

「お前、人のことよりまず自分の心配をしろ!ほら、入ってこい。寒いんだろ?」

そう言って自分の隣をぽんぽんと叩く冬耶を見て、雫は驚いたように瞠目した。
そしてまたしても瞳をうるうると潤ませた雫は、がばりと寝具を捲り上げて冬耶の隣に潜り込んだ。
ぎゅっと冬耶の身体にしがみつく。
しかし、これに仰天したのは冬耶の方だった。

「し、雫、お前…っ!せめて狐に戻るとかしろ!!」
「嫌です、こっちの方が良い」

俺が困るんだ!という冬耶の心の声も届かず、雫は一際力を込めて冬耶にすがり付く。
胸元に顔を埋めるようにしてくる雫に、冬耶は行き場を失った両手をどうすべきかと視線を彷徨わせた。

「…あったかい、ちゃんと生きてる」

冬耶の鼓動を間近に感じて安心したのか、雫が小動物染みた仕草で頬を擦り寄せてくる。

「……生きてなかったら今の今までお前と話してた俺は何なんだよ」
「それだけ心配したんです。冬耶のわからずや」
「わからずやってお前……。…悪かったよ」
「そうです、反省して下さいね!」

冬耶の腕の中でふんぞり返ったように偉そうな態度に出た雫に、
何故説教されないといけないのかと複雑な気分になる。
元はと言えば、人の忠告を無視して泉に落ちた雫の方こそ反省して然るべきなのではないかと
思い至った冬耶は、ドヤ顔の雫の鼻を無言で抓み上げた。

「なっ、なにひゅるんでふかー!」
「いや、何でお前から偉そうに説教されなくちゃならねぇのかと思ったら、つい、な」

冬耶の手を叩き落として、雫は鼻を擦った。
また冬耶から摘まれまいと両手で鼻を覆って隠している。
その様子が可笑しくて微笑ましくて、冬耶の顔に笑みが浮かぶ。

「──…なぁ、雫」
「……何ですか」
「お前、俺のこの傷見ても怖くないのか?」
「は?」

雫の素っ頓狂な返事に、冬耶は思い切り面食らう。
まさか、は?なんて反応が返ってくるとは思わなかった。
余程おかしなことでも聞いてしまったかのような焦りが後からじわじわと襲ってくる。

「は?ってお前、失礼な奴だな。そんな変なこと聞いたか?」
「変ですよ、すっごく変。
眼帯してるんだから怪我か何かで見えないんだろうなってことくらい前々から予想は出来てましたよ」
「予想は出来ていても、実物見るのとでは違うだろ」
「そりゃ違いますけど、びっくりしたり心配はしても別に怖いなんて思いません」

そもそも何故怖いと思うのかがわからない、と、雫は怪訝な表情を浮かべて冬耶を見る。
悉く予想外の言動をしてくる雫に、
冬耶もどう返していいのか言葉に詰まって戸惑ったように雫を見詰め返すしかなかった。

「…人間は外見に気を遣う生き物だということは知ってます。
だから冬耶がその傷を他人に見せないように気を付けてるのもわかるつもりです。
でも、冬耶のその傷を見た人間がどんな感情を持つものか、人間じゃない私には良くわかりません」

じっと冬耶の黒曜の瞳を見据えていた雫の、その琥珀の瞳が不意に揺らいだ。
自身が口にした、自らが人間ではないために、
こういう場合の人間の感情がわからないということが心苦しいのか、冬耶から視線を外して俯く。
冬耶の顔を見ないように、冬耶の胸元に顔を埋めて、ぎゅっとしがみついた。
そのままの体勢で、ぽつりぽつりと続きをこぼす。

「…ただ私が冬耶の傷痕を見てしまったことで、
冬耶にそんな顔させてしまっているから…ごめんなさい、と、思います…」
「……だから、お前が気にすることは何もないって言ったろ。
特に俺のこの傷に関しては、お前は何も関わっちゃいない。見ちまったのも故意じゃないんだろ?」

それに、と、冬耶は躊躇うように一度言葉を区切った。
顔を上げようとしない雫を、少しだけ腕に力を込めて抱き締める。
冬耶の腕の中で、驚いたように雫の身体が跳ねた。

「怖くねぇってお前が言ってくれたことで、正直ホッとした。
他人なんざ別にどうでも良いが、俺は自分で思ってたより、
お前にどう思われるか不安だったみたいだな」
「何故?」
「…お前には嫌われたくないってことだよ、わかったか」
「まぁ、そりゃあ嫌いになったら一緒に旅なんてしたくないですもんね」
「…まぁ…それもあるけどな」

含みを持たせてみても言葉の裏にある真意に全く気付かない雫に呆れると共に、
らしいと言えばらしくも思えて、冬耶は特に意味もなく雫の頭を撫でる。
同時に獣の耳にもゆるゆると触れてやれば、
雫は心地良さからか全身の力を抜いて益々冬耶に身体を預けてくる。
元の狐の姿の時を彷彿とさせる仕草がひどく愛おしかった。

「──…あのな、雫」
「はい?」
「俺の昔の話、聞いてくれるか?」
「昔の話…?」

雫の問い掛けに、そう、と冬耶が頷き返す。
左目に傷を負った時の話だと、冬耶は少し哀しそうな笑みを浮かべた。

「私は構いませんけど、でも無理に話してくれなくても…」
「いや、俺が話したいんだ。お前に知っておいてほしい。聞いてくれ」

途端に真剣味を帯びた冬耶の声に、雫の耳がぴくりと揺れた。
雫自身も余計なことは何も言わず、冬耶の腕から離れてのそりと身体を起こした。
再び横になっている冬耶の傍らにちょこんと正座する。
やけに畏まって話を聞く体勢を取った雫が可笑しくて、
昔の話をするということから無意識に強張っていた冬耶の表情もやんわりと和らいだ。
そうして冬耶は、少しずつゆっくりと、過去自らの身のうちに起こったことを語り始めた。
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