安らぎの檻 朽ち逝くとき−消えない傷*中編−


「──…もう、7年も前になるのか」

そう呟いた冬耶は、ふと遠い目をして天井を見上げた。

「前、俺の手記見たろ?それに俺の弟の名前があったの覚えてるか?」
「はい。確か春近という名前の…」
「そうだ。その春近の下にな、もう一人弟がいた」
「三人兄弟なんですか?」
「三人兄弟だったんだ」

妙な言い回しをしてくる冬耶に、雫はあからさまに不思議がって小首を傾げる。
どうしても過去形に言い換えるということは、つまり、もう三兄弟ではないということか。
しかし兄弟が兄弟でなくなることなどあるのだろうかと、
雫は冬耶が話の続きを口にするまで悶々と考え込んだ。

「春近の下の弟は夏惟(かい)っていってな、俺より八つも下で…まだ六歳だった」

冬耶は懐かしそうに、けれど辛そうに目を細める
そんな冬耶を、雫は黙って見守ることしか出来なかった。
何も出来ないことが歯痒くて、冬耶からの次の言葉を待つ間、
ぎゅっと膝の上で自身の掌を握り締める。

「歳が離れてたからな、俺も春近も夏惟が可愛くて、いつも三人一緒にいた。
何をするにも三人で、兄弟仲は頗る良かった」

兄弟がいない雫にとって、兄弟がいる感覚というものは良くわからなかったが、
冬耶の口振りから冬耶自身は弟二人を大層可愛がっていたのだということは何となく察しがついた。
何だかんだ言いながら世話を焼いてくれる冬耶の面倒見が良いのは、
冬耶が長男だったからかと場違いなことも考えたりした。
しかし、はたとあることに気付いた雫は、純粋に疑問を口にした。

「でも、冬耶の手記に夏惟なんて名前出てこなかったような…」

雫の言葉に、冬耶の眉根が辛そうに寄せられる。
途端に重くなった空気に、失言だったことに気付いた雫は慌てて口を噤んで俯いた。
ごめんなさい、と謝ることしか出来ない。

「いや…。流石のお前でも、もう察しはついたと思うけどな…夏惟はもういない。
死んだ。俺が殺したようなもんだ」

思いもよらなかった冬耶の言葉に、雫は弾かれたように顔を上げた。
何か言おうとしても、思っていることが上手く形にならない。
結局口に出せたのは、「そんな…」という一言だけだった。
絶句した雫を前に、冬耶は一つ大きく息を吐いてから目を閉じた。
その様子はまるで、弟を亡くした当時の情景を思い出そうとしているかのようで、
冬耶は目を閉じたまま話の続きを語り始めた。

「夏惟が死んだのは夏の、嵐が過ぎてから数日後のことでな。良く晴れた、とても暑い日だった」

その日、冬耶は親の言い付けで早朝から親類の家まで出掛けていたという。
屋敷へ戻ったのは昼を過ぎた、一日で最も暑い時間帯だった。
弟二人の姿を探すも、春近も夏惟も屋敷にはおらず、
家の者に聞けば二人で川へと遊びに行ったということだった。
暑い日に川とはお誂え向きだと、冬耶はすぐに弟達の元へと向かった。

「──…馬鹿だよな、嵐の後の川なんて危険でしかないのに、
俺は弟達を連れて帰ることもせず一緒になって遊んでたんだ。
兄として弟を守る立場でありながら、守るどころか危険な目に遭わせて…
…助けることすら出来なかった」

無知が罪だとは良く言ったものだ、と。
冬耶は絞り出すように吐き捨てる。

「……その、鉄砲水、だったんですか…?」

聞き辛そうに雫が言葉を選んで口にする。
嵐の後の川で危険なものと言えば、増水した川の水位と、それによって勢いを増した水流、
そして最も危険且つ事前に予測もつかない鉄砲水が一般的には真っ先に思い付くだろう。
その中で、兄として責任ある立場をしっかり自覚していたのだろう冬耶が、
目に見える危険──水位や水流に気を付けていないはずがない。
そう考えれば、残す原因は消去法から目に見えない危険である鉄砲水しかないと
雫は推測したのだった。
雫の考え通り、冬耶もそうだと頷いた。

「…本当に一瞬のことでな、俺と春近はたまたま川から上がって休んでたから助かった。
夏惟は、よっぽど川遊びが楽しかったんだろうな。
俺と春近が近くにいたから安心してたのか、一人でも川に残って、流された」

浅瀬にいたから心配はしていなかった。
何より、仮令弟が深瀬に足を取られたとしても、すぐに助けられる自信があった。
慢心していた。

「直前まで、兄様って笑って手ェ振ってたんだ。それが、一瞬で…」

冬耶の声に言い様のない苦渋が滲む。
目の前で幼い弟が流され、圧倒的な自然界の力を前に只人である冬耶に何が出来ただろう。
…何も出来なかったに違いない。
それを思えば、その場にすらいなかった雫の口から冬耶にかけられる慰めの言葉など
あるはずがなかった。

「すぐに飛び込んで、夏惟の腕も掴んだ。その時は、夏惟だってまだ生きてたんだ。
……俺が、この目さえ傷付けなかったら、今も夏惟は生きていられたはずなんだ…」
「じゃあ、冬耶の左目もその時に…?」
「…夏惟を助けるのに必死でな、上流から流されてきた倒木を避けきれなかった。
水ん中だったしな。倒木の断面にここを抉られて、気付いた時には俺も川から引き上げられてた」

左目を抉られた痛みと衝撃で気を失い、弟と共に流されたはずだった。
そして気が付いた時、冬耶は集まってくれた大人によって河原に引き上げられていた。
その手はしっかりと夏惟の細い腕を掴んでいたが、
しかし、冬耶と共に引き上げられ隣に横たわっていた夏惟は既に息をしていなかった。
幼い身体は泥で汚れ、目を閉じたまま動かない。
騒ぎを聞き付け集まった大人達も、手遅れだと首を振るばかり。
春近は大声で泣いている。
その光景はまるで夢の中の出来事のようで、白い靄がかかったように現実味がなかった。
本当に悪い夢であって欲しかった。

「俺も相当な怪我しちまってたし、周りの大人達は早く怪我の治療をさせようと
俺を夏惟から引き離そうとしたんだ。でも、夏惟が死んだとは全く信じられなくてな…。
大人を振り切って夏惟にすがり付いて名前を呼んで…。
でも、やっぱり夏惟は起きなかった。冷たいままだった」

夏惟が、弟が死んだなんて信じられなかった。
信じたくなかった。
しっかりと弟の腕を掴んでいたのに、助けられなかった。

「それからな、いつも思ってた。どうして俺が助かって夏惟が死ななきゃならなかったのか。
夏惟じゃなくて、俺が死んで夏惟が助かってた方がどんなにか…ってな」
「そんな…そんな…っ!!」

違う、と雫が懸命に首を振って否定する。
そんな雫の姿に、冬耶も思わず苦笑を浮かべた。

「でもな、正直俺も辛かったんだ。
夏惟が死んだことだけじゃなく、俺の左目も使いモンにならなくなったせいで、ウチに居辛くなった」
「どういう、ことですか…?」
「冴滌の家はな、それなりに名の通った武家だ。
だから冴滌に生まれた男子は文武両道をみっちり教え込まれる。特に武には力を入れてな。
でも左目がダメになったせいで、俺は満足に刀も握れなくなった」

そこまで言っても良くわからないという顔をする雫に、冬耶は続きを聞かせてやる。

「つまり、片目だと上手く距離感が掴めねぇんだ。武家の、それも跡取りとしては致命的だ。
…なのに、俺の親父は情け深い人でな。刀も握れない俺に、そのまま跡を継がせるって言うんだ」

医者から、このままでは左目の分まで負荷が掛かっている右目が見えなくなるのも
時間の問題だと言われている。
無論、両親もそれを知っている。
それでも尚、父親は冬耶を冴滌の家の跡取りとして立てると聞かない。
可笑しいだろ?と、冬耶が力なく笑った。

「お前、前に言ってたよな?ほんのたまに、自分の生まれが嫌になるって。俺も同じだ」
「え…?」
「俺は春近に跡取りの座も何もかも譲って構わないと思ってた。
むしろ、家の存続の為には譲るべきだと思ってた。
何も出来なくなった俺に、それでも過度な期待を掛けてくる親父から逃げたかったんだ。
ガキの頃からずっと家を継ぐんだって、家のことも親のことも誇りに思ってた。
なのに左目を無くしてからは、そのことが重荷になって仕方なかった」

だから、なし崩しであれ冬耶に代わって春近が跡を継げるように、黙って家を出た。
行方知れずになろうと考えた。
…半ば自棄になっていたのだと思う。
路銀が尽きて路頭に迷い、行き倒れてしまった時は、その時はその時だと本気で考えていた。
計画性も何もあったものではない。
それでも兎に角、あの時は家から離れたかった。
息苦しくて窮屈で仕方がなかった。
現実から逃げ出したんだ、と、冬耶が覇気のない声で語り聞かせる。
そして、ふと自嘲気味に微笑んだ。

「まぁ、残してきた春近にとっては良い迷惑だったかもな。
腰抜けの兄だと思われたかもしれねぇし、卑怯だとも思われたかもしれない」
「そんな…冬耶は何も悪くないのに…!」
「いや、俺が悪くないなんてことはないだろ。
もっと良い方法はあったんだろうが、それに気付けもしないしな。無知は罪だって、良く言ったもんだ」
「…冬耶は頑固者です。もっと良い方法とか、あの時はこうだったらーとか、
ああしてたらーとか、そんなの今だからこそ言えることじゃないですか!」
「雫?」
「只の人間に先が見えて、そうならない為の予防策を講じるなんて芸当出来るわけがないんです!
お祖父様じゃあるまいし!人間なのに、そんな考えを持つこと自体が烏滸がましいんですよ!!」
「なんだと…?!」

だんだんと声を荒げていく雫の、人を、引いては冬耶を馬鹿にするかのような言い分に
カッと頭に血が上る。
上体を起こした冬耶は、枕元に座していた雫に掴み掛った。
雫の短い悲鳴と共に倒れ込む。
組み敷いた雫の衿元を掴み上げようとした刹那、雫の顔が冬耶の目に映った。
その顔を見た途端に、頭に上った血がスッと下がっていくようで。
冬耶は冷静に、しかし茫然と雫の顔を見下ろした。

「…なんで泣くんだよ」
「だ…って、冬耶はやれることやったのに…人間に出来る精一杯のことやったのに……」

しゃくり上げながら泣く雫は、それでも懸命に何かを伝えようと拙いながらも言葉を紡いでいる。
感情のまま思ったことを口にしているせいか、雫が何を言いたいのか未だわからない。
戸惑いながら、冬耶は雫の話を黙って聞いた。

「と、冬耶は、自分のことなんて省みらずに弟を助けようとしたんでしょう…?
左目無くしても、意識を無くしても弟を助けようとしたんでしょう?
そんなになってまで弟を助けようとしたのに、それでも冬耶の弟が亡くなったのは、
どう考えても冬耶のせいじゃないじゃないですか…!」
「雫…」
「冬耶が自分を責めるのは仕方ないことなのかもしれませんけど…
でも、折角助かった命なのに自分が死んだ方が良かったとか、
どうしてそこまで自分のせいにしたがるのか私にはわかりません」

わかりたくもないです、と雫は泣きながらもいつになく厳しい口調で吐き捨てる。
狐であり妖でもある雫にとって、生きるということは人間よりも苛酷なことだ。
祖父である稲荷神の庇護があるとはいえ、やはり生きていく上での危険は人間よりも多い。
人間から狩られることだってあるのだから。
だからこそ、雫は種族柄生への執着が強い。
そのことを思えば、弟と共に濁流に流され、左目も失った絶望的な状況下で
命を取り止めることが出来た冬耶は本当に幸運だった言って良い。

それなのに、冬耶は自分が生きていることを喜ぶどころか、死を望んでいるかのような物言いをする。
冬耶の自分を責める気持ちもわからなくもないが、それでも、
冬耶の口からそんな言葉を聞いて腹が立った。
同時に、出会ってから今日までの全ての時間を否定されたかのようで、ひどく悲しかった。

「…私は、冬耶まで死ななくて良かったって…冬耶が助かって良かったって思います…。
弟さんのことは残念だと思いますけど、でも、冬耶がその時に助かってなかったら、
今こうして冬耶と一緒にいることも出来なかったってことでしょう?」

そんなの私は嫌です、と。
雫は怒りと悲しみを込めて、睨み付けるように真っ直ぐ冬耶を見据える。
素直すぎるくらいに真っ直ぐな雫の琥珀色の瞳に気圧され、冬耶が弱ったとばかりにたじろいだ。
言われてみれば雫の言う通りだと、自覚も無いうちに雫との日々を否定していたことに気付く。
そんなつもりは決してなかったが、結果的にはそうなってしまっている。
そのことに気付かされてしまい、雫の瞳を直視出来なくなってしまった。
思わず雫に掴み掛かってしまったことへの申し訳なさも手伝って、気まずさにどうにかなりそうだった。

「…悪い」

兎にも角にも雫の上から退くことが先決かと、立ち上がるべく身体を起こす。
しかし、ふと目に入った雫の瞳がまた一際大きく揺れたかと思うと、
今度は冬耶の身体がガクンと揺れた。
雫が冬耶の首筋に腕を回してしがみついてきたために、
またしても雫の上に倒れ込む形になってしまった。

「こら、雫…っ!!……雫?」
「……お願いですから…もう死んだ方が良かったなんて言わないで下さい…私は冬耶じゃないとイヤ。
冬耶がいないなんてイヤ。刀が握れないから何ですか?左目が見えないから何?
そんなの私にはどうでもいいです。
こうして冬耶が一緒にいてくれたら、私はそれが一番幸せなんです…」

冬耶の頭を掻き抱くようにして引き寄せた雫は、そっと冬耶の左目に触れた。
反射的に冬耶の身体が強張る。
しかし、敢えてそれを無視した雫は、指先で撫でるように冬耶の左目の傷をなぞった。

「…冬耶がこの傷を嫌って疎ましく思うなら、私が冬耶の分までこの傷を愛しく思います。
冬耶が弟を助けられなかったって自分を責めて嫌うなら、私は命懸けで弟を助けようとした冬耶を、
冬耶の分まで愛します。だから…自分が死んだ方が良かったなんてこと言わないで下さい」

私にとっての冬耶の代わりはいない、と、
雫は再び冬耶の首に腕を回してしがみつきながら泣きつく。

「…お前、それ意味わかって言ってるのか?」
「意味?そんなの、冬耶が自分のこと蔑ろにするなら、
代わりに私が冬耶のこと大切にしてあげるって言ってるんです。
誉めてあげます、撫でてあげます、頑張った分いっぱいご褒美あげます」
「……俺は子供か」
「男なんて大抵図体が大きいだけの子供だって父様が言ってました」

間違ってはいないので咄嗟に反論出来ず、口ごもる。
大きく溜め息を吐いた冬耶は、しがみついてくる雫の身体を支えながら、
少し戸惑ったように口を開いた。

「なぁ、雫。俺は夏惟を助けられなかった。それでも、頑張ったって思うか?」
「こんな怪我してまで弟を助けようとしたのに、冬耶が頑張ってないなんて思う人がおかしいです。
冬耶は頑張りました。ずっとずっと、誰より一番頑張りました」

よしよしと本当に子供を相手にするかのように頭を撫でてくる雫に、
いい歳した男がなんてザマだと照れくさくなる。
それでも、ずっと胸に抱え込んできた亡き弟への想いと自分自身に対する負い目を雫が受け止め、
自分のことのように受け入れてくれたことで、
冬耶はあれほど自身を苛んでいた自責の念が嘘のように軽くなっていることに気付いた。

──冬耶が自分のことを嫌うなら、私が冬耶の分まで、冬耶を愛します。

そう言った雫の言葉には心底驚いたが、この言葉のおかげで楽に呼吸が出来るようになった気がする。
夏惟のことを思い出し、ひどく感傷的になっていた気持ちが不思議と浮上した。
自分では許せなかったことを、雫が代わりに許してくれたことに救われた。
有りのままを認めてくれたということが、ひどく嬉しかった。

「…いつまでもうじうじ悩んでたら、夏惟にも笑われちまうかな」

そういえば、夏惟は
『堂々としてる兄様かっこいい!僕もおっきくなったら兄様みたいになる!!』
と、しょっちゅう言っていたっけ。
そんなことも忘れていた。
夏惟が死んで、自分を責めるようになってからは堂々となんて出来たためしもない。
兄様兄様といつもまとわりついて来ていた弟の満面の笑顔を思い出して、
冬耶の右目から涙が一筋、そして小さく笑みが溢れた。
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