安らぎの檻 朽ち逝くとき−消えない傷*後編−


冬耶は、ぽふぽふと頭を撫で続けてくる雫の細い身体をぎゅっと抱き締めた。

「…冬耶?」

抱き締めると同時に肩口に顔を埋めてきた冬耶が黙ってしまい、
微動だにしないことで雫が躊躇うように冬耶の名を呼ぶ。
そして、ハッとしたように声を荒げた。

「冬耶?傷、痛いんですか?大丈夫ですか?」

雫はおろおろとした調子で冬耶に声を掛けながら、
肩口に寄り掛かっている冬耶の前髪を指先で退かす。
さするように左目の傷痕に触れた雫は、おもむろにその傷痕に口付けた。
予想外の雫の行動に、冬耶の身体が驚いて強張る。
同時に、気を失っていた間の夢現の中で傷痕に触れたものは雫の唇だったのかと、
あの時左目に触れた柔らかくて温かい感覚が蘇る。

「痛いの痛いの飛んでいけ」

冬耶の傷から唇を離した途端、しかめつらしくそう唱え出した雫がおかしくて愛おしくて、
冬耶は思わず噴き出した。
雫の肩口に顔を埋めたまま、肩を震わせて小さく笑う。

「な、なんですか、なんで笑うんですか?!人が心配してるのに!もう、冬耶のバカ!!」

雫は顔を真っ赤にして、抱き締めてくる冬耶の腕の中から逃れようともがく。
しかし、そうはさせないとでも言うように、雫がもがけばもがくほど
雫を抱き締める冬耶の力は強くなっていく。
苦しくはないが逃げ出したい。

「も、ヤです!離して下さい…!!冬耶なんて嫌いです!!」
「嫌だね、離さねぇ。お前さっき俺のこと愛してくれるって言ったじゃねぇか。
自分の言ったことには責任持たなきゃな」
「な、あ、あれは…その…」
「それに、頑張った分ご褒美くれるんだろう?俺は頑張ったんだよな?なら、ご褒美くれよ」

さっきまでのしんみりした空気が嘘のように、いつもと変わりない態度で接してくる冬耶に面食らう。
しかし、どこか吹っ切れたかのようにスッキリとした表情をしている冬耶を見て安堵したのも事実だった。
とは言え、まさか今ここでご褒美の件を持ち出されるとは思わず、
何もあげられるものがないと雫は狼狽える。

「ご褒美…って言われても…冬耶は何が欲しいんですか?」
「欲しいと言うか、実家に帰ろうと思うからお前も一緒に来い」
「えっ」
「夏惟の墓参りに行きたくなった。付いて来てくれよ」

予想外のことに雫はただただ目を瞬かせる。
家に居るのが辛かったから家を出たと言っていたのに、実家に戻るとはどういう心境の変化だろうか。
否、そんなことよりも、冬耶が実家に戻るということはこの旅が終わりになるのと同義ではないか。

「…冬耶が実家に帰るなら、もう一緒にいられないんですか?」

そういえば、許嫁もいると言っていた。
ならば尚のこと、もう一緒にはいられなくなる。
そう思うと途端に得も言われぬ絶望感に苛まれた。
胸が締め付けられるように苦しくなり、雫は俯いて胸元の衣を握り締める。

「そうだな、一応はそこが旅の終着点にもなるか。
ただ、旅を終えてから先も俺と一緒にいるかいないかはお前が決めろ」
「どういう、ことですか?」
「旅は終わっても俺といたいなら、嫁に来い。そうでないなら、旅を終えたところでお別れだ」

更に夢にも思っていなかった言葉が冬耶の口から飛び出し、雫はこれでもかと大きく目を見開いた。
琥珀の双眸には、驚きの色がありありと浮かんでいる。

「嫁って…冬耶の?」
「俺以外に誰がいるんだよ。…あぁ、でもお前許婚がいるって言ってたな。やっぱ難しいか」

「そんなの、一緒になるつもりがないから逃げてるって言ったじゃないですか。
冬耶こそ許嫁がいるって言ってたのに、そんなこと言い出して良いんですか?
それとも、許嫁の他に私を囲うつもりなんですか?」
「馬鹿、そんなことするわけないだろ!許嫁の件は断るに決まってるだろうが!!」

信じられないと言うような調子で頭ごなしに怒鳴り付けられ、
雫は怒鳴られたことでビクッと身を竦ませた。
側室もしくは愛人としての位置付けで雫を囲うつもりではないということは、
冬耶は本気で雫に嫁に来いと言っていることになる。
思いもよらない冬耶の言葉に、何と返せばいいのかわからない。
雫の戸惑っている心情を表すように、狐の耳が忙しなくぴこぴこと動いている。

「…でも、あの、私は…人間じゃないんですよ?この姿だって仮初めのもので…」
「狐のお前も、今の姿のお前も、全部お前だろ」
「でも、私は九尾狐で、冬耶は人間で…」
「俺は気にしない」
「こ、子供だって出来ないかも…」
「やってみなけりゃわかんねぇだろ。出来ないなら、それはそれで構わない。
二人で穏やかに暮らすのも有りだ」

いっそ気持ち良いほど、よどみなくキッパリと言い放つ冬耶を見て、雫の表情がぐにゃりと歪む。
今にも泣きそうな表情で俯いた雫は明確な意思を込めて、
抱き締めてくる冬耶の胸を押し返そうとその細腕に力を込めた。

「…冬耶はわかってません。私は九尾狐で、冬耶は人間なんですよ?生きていられる年月が違う」
「…わかってるよ。わかった上で言ってるんだ。俺はな、雫、死ぬその瞬間までお前といたい。
お前を残して先に死ぬのは勿論心残りだろうが、それでも死ぬ時までお前が一緒にいてくれるなら、
それ以上に望むことなんて何もない」
「っ、そんなこと…言われても…」
「勝手なこと言ってるよな。お前の気が済むまで付き合ってやるって言っておきながら
俺の都合で終わりにしたり、お前の気持ちも考えずに俺の気持ちだけ押し付けて…。ごめんな」

雫の頬に触れながら、そう申し訳なさそうに苦笑する冬耶の瞳はいつになく真剣な色を湛えていた。
だからこそ、雫も困惑する。
こんな風に必要としてもらえて、嬉しく思わないわけではない。
先程冬耶を愛すると言ったことも本心から出た言葉だったし、
冬耶を特別に思っている自分にも気付き始めた矢先だった。
けれど、日々を一緒に過ごすという点は同じでも、
やはり共に旅をすることと婚姻を結ぶということでは意味合いも大きく違ってくる。
大好きな相手から置いていかれるということが恐ろしい。
寿命という観点から人間である冬耶の方が先に死ぬのはわかりきっている。
冬耶は死ぬ瞬間まで雫といたいと言ったが、その後に一人残されると思うと堪らなく辛かった。
それを思うと、なかなか踏ん切りがつかない。

「……無理に今返事はしなくていい。俺の家に着くまでに答えを出してくれれば、それでいい。
お前が受け入れてくれるなら、そのまま親に紹介すればいいだけだからな」
「冬耶…」

するりと頬を撫でた冬耶の指が唇に触れて離れたと思った刹那、冬耶の唇が雫のそれに重なる。
触れるだけのほんの一瞬の行為に、雫は呆然と冬耶の顔を見詰めることしか出来なかった。
口付けたばかりの雫の柔らかな唇を親指の腹で撫でながら、冬耶は雫を見詰め返す。

「ただ、俺の気持ちは知っておいてくれな?生半可な気持ちで求婚なんてしねぇよ」

そう困ったような微笑を向けてから、冬耶は抱き締めていた雫の身体から手を離す。
身体を起こして雫の上から退き、畳に放り出されていた眼帯を拾い上げる。
手慣れた動作でそれを左目にあて、後頭部でしっかりと紐を結んだ冬耶は、
立ち上がって着崩れていた着物を見苦しくない程度に手早く直した。

「あの、冬耶、寝てないと…」

のろのろと身体を起こし、戸惑いも露に冬耶の行動を見守っていた雫が、
軽く身支度を始めたとも思える冬耶の行動を見て堪らず声を掛けた。
求婚されたことと冬耶が倒れたことは何の関係もない。
冬耶の身体が心配なことに変わりはなかった。
不安そうな雫の声に、冬耶が振り返る。

「もう平気だ。お前がしてくれたまじないのおかげかもな、嘘みたいに痛みも引いた」
「でも今無理しちゃ…」
「大丈夫だ。倒れちまったことでここの宿の主人にも迷惑かけたろうし、礼はしておかないとな。
今のうちに行ってくる。すぐ戻ってくるから心配するな」

笑って雫の頭をわしわしと撫でると、冬耶はそのまま部屋を出ていってしまった。
冬耶の背中を見送り、部屋に一人残された雫はことんと冬耶が眠っていた布団に倒れ込んだ。

シンと静まり返った空気に寂しくなるのはいつものことだが、今日は少しだけホッとした。
冬耶の過去や左目の傷痕のこと、立場や負い目のことを聞いて、
改めて自分の中で冬耶が特別な存在になっていると気付かされた。
自分の気持ちに気付いたことでいっぱいいっぱいだというのに、
そこに突然の求婚とあっては完全に頭がついていかない。
許容範囲を超えている。
ただただ一緒にいたいと思っていただけなのに、極めつけに口付けまでされて、
完全にどうしたらいいのかわからなくなった。

あんな冬耶は知らない。
いつも不敵で傲岸不遜で無駄に偉そうな冬耶しか知らなかったのに。
抱き締めてくる腕の力はとても強くて、触れられるのも嫌ではなかった。
心地よかった。
けれど、冬耶から明確に「女」として扱われたのは初めてで、
女を相手にする冬耶はいつもと違っていて、冬耶がまるで知らない人間のようで怖かった。
だから、こうして一人落ち着く時間が出来て安心した。
頬の熱りも少しずつ引いていく。

「……冬耶…」

ぽつりと冬耶の名前を呼んでみる。
口付けられた唇にはまだあの時の感触が残っているようで、そっと自分の唇に触れてみた。
あれが人間の愛情表現の一つだということは知っている。
それを思えば、冬耶から向けられた愛情は素直に嬉しかった。
これから先、ずっと一緒にいられたらどんなにかと思う。
けれど、だからこそ一人残されることが恐ろしい。
冬耶のことを特別に想っているからこそ、冬耶を亡くした時のことを考えると堪らなくなった。
冬耶の想いに応えたいのに応えられない。
しかし、冬耶と離れるのも嫌だ。
延々と答えの出せない悩みに頭を抱えながら、雫は身悶え続けた。
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